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村岡昌憲
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▼ 2月18日 ~ベトナム訪問記 その2~
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- (life-遊び-)
- Stage20 - ベトナム訪問記 その2
その1 はこちらから
その1 はこちらから
日本が必死に頑張っている1972年に僕は生まれた。
近代史を勉強すると、1972年というのはすごく今を表す分岐点となる重要な年となっている気がする。
僕が生まれた年、ベトナムは戦争のまっただ中にあった。
アメリカの猛烈な空爆、ゲリラ戦、毒ガスに枯葉剤に地雷。
時代はまさに共産主義と資本主義の激しいぶつかり合い。
翌年、ベトナムは南北統一を果たし、共産主義国となった。
以降、世界中で共産主義という思想の崩壊が始まっていくのは皆さんが知るとおり。
結果平等の原則という人間の理想は、人間の欲望には勝てなかった。
1972年は色々あった。
まずは連合赤軍の浅間山荘事件。
これは最近すごく勉強しているテーマだ。
今の日本人の価値観を形成する上で、非常に重要な転換点となったのだと確信している。
続いて何だろう。
ニクソン訪中とか日中国交回復もインパクトがあった気がする。
共産主義と資本主義が互いに手を取る。あの当時そんな雰囲気はとてもなかった。
当時の日本のショックはどうだったんだろう。
今回、ベトナムにいる間に、アメリカと北朝鮮が核放棄で合意した。
6カ国協議とはいえほとんど日本の頭越しである。
いつまでこれを繰り返すのか。そんな失望。
1972年は沖縄返還もあった。
田中角栄が日本列島改造論を発表した。その後、総理大臣になり、以降地価があがってバブル経済へとつながっていった。
横井庄一さんがグアム島で発見された年でもあった。
終わらない戦後。当時の人はさぞびっくりしたんだろう。
でも、横井さんがグアムで過ごした28年だったかの期間の間、日本は間違いなく豊かで幸せな国になったと言える気がする。
おかえりなさいムードは暖かかった。
でも、70年代後半に北朝鮮に拉致された方々が2002年に帰国したとき、日本は前より良い国になったのかというと全面的には言えない感じがする。
他、山口百恵が出てきたり、リブヤングでキャロルがデビューしたりとか色々とあったようだ。猪木と馬場が日本プロレスを脱退したとか(笑)
産業でいえば、ぴあが創刊され、前年にマクドナルド、73年にセブンイレブンがはじめて誕生したらしい。
情報化社会の始まり、ファーストフード時代の始まり。
それは1回の体験性の喪失の始まりの始まりである。
このことも今の自分の中のすごく大きなテーマである。
そんなことばかり考えながら、ラオス国境を目指して18号線を西に向かっていく。
実際はボーッとしていると、あっという間に死んでしまうので集中して走ってたけど。
トラックもバスも容赦ない。我が物顔で走っている。
避けなければ死んでいたというシーンがひっきりなしにある。
生死が関係するという選択をするのは久々だ。
それは怖いことでもある。失敗すれば大きな痛手を被るのだから。
だから日本は社会整備を進め、本当に安全な社会を作ってきた。
が、ほとんどの選択に生死が関係なくなってしまった。
生への選択の連続こそが、男の自信を作っていくのだと最近気付いた。
そのチャンスが日本にはほとんど無いことを、こうして海外にいると気付いてしまう。
安全な社会を目指した結果の代償。これは大きい。国家規模で問題な気がする。
自信ってなんだ?
自信って最終的には自己の承認であろう。
自己承認するためには、承認するための情報が必要である。
情報は出来事や成果といった自己で承認できるものと、他者の評価や承認が必要なものの2種類あると思う。
他者の承認ばかり得ようとしている人が多いのは、そうして選択の機会を奪われ、自己の承認ができにくい国になってしまったからではないだろうか。
他者の承認は、終わりがない。それが怖い。
物質主義、ステータス主義、拝金主義。
みんな外部より評価される事ばかり頑張ってる。
人にどう思われるかなんて、たいした価値はないのに。
やがてフングという街に入る。ハノイから30~40km程度。
夜はここに泊まることになるのだが、この時は目もくれずに通過した街。
何度か、大きな川があって、そのたびにドラム缶で作った橋がある。
他の住民が5000ドンで渡っているのに、外人と判るや2万ドンと言う。
英語も通じないしホント大変。交渉決裂するときは日本語でまくしたてて怒った振りをする。毎回1万ドン(それでも70円)で何とか通してもらった。
夜は街の屋台で食べる。
フォーやブンチャーが美味しいのだが、身振り手振りで出てくるものはいつも何か違うもの。お行儀よくやってられないので、隣のテーブルの美味そうなものを指さしては頼む。
豚とフォーの焼きそばみたいなのは美味かった。後は・・・。
この後、なんとカメラの電池切れ。以降写真無し。
ガソリンもなくなって、これ以上進むとどうなるかわからないので、先ほどの街に引き返す。街の定食屋の軒先で夜を明かした。
とても汚く貧しい街だった。
定食屋のトイレはシャワーブースを兼ねた小さな部屋だったが、ボットンで悪臭に満ちていた。
ハノイから数十km離れるだけで、こんなにも変わってしまう。
このあたりの人の年収はとても10万円を超えるとは思えない。
彼らはその生活こそが当たり前なのだが、豊かな暮らしをしている日本人にはとても耐え難いものなんだろう。
定食屋は夜は飲み屋になった。男達がトランプをして賭け事を楽しんでいた。
みんな明るく良い笑顔で笑ってる。全ての人が順番に僕に話しかけに来た。
言葉が通じなくても一所懸命に。
一人、英語が何とかできる人がいて、ここから先はヘルメットがないと警察に捕まってしまうと言われる。
それ以前に免許無いし。国際免許も関係ない国なのだ、ここは。
昼間見たときはヘルメットをかぶってる人はごくわずかしか見なかったが・・・。
社会主義国の警察に捕まると思うと思わず身がすくむ。
ここは残念だけど、夜が明けてハノイに引き返すことにした。
ラオスとの国境まで行きたかったが、次に来るときは準備をしっかりして行けばいいのだから。
翌々日から、今度は西ではなく南へとハンドルを握り、街や人々を見る旅。
途中にあった日本の大企業のとても大きな工場。周辺はとても綺麗だった。
市外に出ると、市民が捨てたゴミの山に何度も出会った。
川にはたくさんのゴミが流れていた。
そしてヘドロときつい悪臭。
河川敷はゴミ捨て場である。
こんなところも日本の昭和30年代と一緒であろう。
自然が犯され、魚が住めない川や沼がたくさんあった。
環境の仕事をしている自分にとって、正直目を覆いたくなる光景がそこら中にあった。
でも、この景色の中で育つ子供達がゆとりある生活を手に入れた時、ようやく環境に対する意識が芽生えるのである。
うちの会社がこの国で仕事をするには、まだ40年はかかりそうだ。
そんなビジネスとしての視点でもベトナムを見ていた。
ハノイに戻ると、テトという旧正月を祝う行事に向けて街中一色に染まっていた。
街角、ではなく道の真ん中には風船売りやお花を売る人が。
通りがかった劇場の前では、ヒップホップのダンス大会やラップなども。
ここは社会主義国だったよなぁ、と。
今やベトナムはアメリカカルチャーに夢中だ。日本のカルチャーにも夢中だ。
ベトナムの子達でもアメリカの文化はかっこいいのだろう。
日本人がアメリカ文化に憧れ、影響を受けるのは、敗戦国という何か大きな劣等感がそうさせるのかと思って、苦々しく思っていた。
が、単純に若者はアメリカのカルチャーがカッコイイのだろう。
何がカッコイイんだろう。今度研究してみよう。
旅していて思ったのは、やはり日本人は今一度外部の設定をするべきだと思った。
外部とは、自分ではない何か。
意識として他の存在(より高みにあるかどうかは関係なく・・・)
団塊の世代より前の人はそれを持っていた気がする。
意識は外部へ向き、自己愛は自己愛でしかなかった。
いつからか、モチベーションとかトラウマとかいった言葉が生まれた。
モチベーションもトラウマも自己愛が見せる幻想の一つである。
社員からモチベーションが下がるなんて言葉を聞くのはつらい。
今の自分にはそれを救う力も、それを口にするむなしさに気付かせる力もない。
外部の設定がない自己愛がそうさせるのだ。
その自己愛に包まれている限り、満たされることは絶対にない。
長いものに巻かれて生きているうちはきっと気付かないだろう。
そこから出る方法とは。
そんな問いも続けていた。
自分の場合、ずっと前のことだが、ふと思ったのである。
誰にでもあるように、自分にもある特別な力。
その力を発揮して天分を生きていこうと。
そうでなければ、この国の将来を願い、戦争で死んだ多くの先祖様に申し訳ない。
生き残り、再興を目指して必死に生きた戦後世代の人に申し訳ない。
そう思ったときに自分の場合は、外部の設定ができたのである。
自分にとっての外部とは、歴史である。声なき歴史。それもリアリティある近代史。
だけど、これが全てとは思わない。
人によって天分が違うように、外部となるべきものも違うだろう。
だけど、せめて自分に関わる人、釣りでも会社でも、共に人生を歩み続ける人には、幸せに生きて欲しいのである。
その為に自分にできることとは。
最後はずっとそんなことを考えていた。
こうしてベトナムの9日間が終わった。日本に、家に帰る。
水が出る。お湯が出る。食べ物が買える。
街は静かで治安も良く危険な目にほとんど会わない。
何て豊かな国なんだと心から実感する。
しかし、これだけの国をたった60年で作り上げた日本人はほんとうにすごい。
心から感謝。親父や母さんに感謝。幸せだ。
つくづくそう思った。
- 2007年2月18日
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