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平田孝仁

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水面影 -みなもかげ-

 河川最下流域の外灯が明暗を作り出す橋の下。先にエントリーしていたSさんに挨拶を交わし状況を聞いてみると、「渋いですねぇ…」と予想通りの答えが返ってきた。
 
前日の仕事中に二人で選んだこの川でロッドを出すのは僕もSさんも初めてのことで、ベイトの有無や水深といった要素以前に、車を停めるスペースを探すところからのスタートだった。
 
釣り開始から30分と経たない内にうっすらと稜線が明るみ、徐々にこの川の景色が浮かび上がってくる。
スズキの気配はおろかベイトの姿も僕は確認することが出来ず、数投して思い出したように測った水温がこの後の結果を脳裏にちらつかせる。
 
Sさんに一言告げロッドを仕舞いに車に戻ると、ウェーダーから靴に履き替えカメラと水温計をポケットに突っ込んで、車のカギを締めて土手を登った。
 
 
 
 柔らかさを帯びるようになった朝の空気、切り替わりを繰り返す信号機、頭上を鳴きながら横切る鳥に、後ろから越してゆく自転車の高校生たち。
"ロッドを持たずに歩く"だけで、普段気にも留めない周りの風景や時間の流れが、やけに意識の内側に入り込んでくる。
 
山から海へ流れ下る川の水を写真におさめながら、河川沿いの遊歩道を朝日に向かって歩く。
時折立ち止まっては、目の前にある景色の断片を意識の中に記憶する。
 
今は断片でも一向に構わない記憶は、最終的に1095日の間のどこかで一本の線として繋がらなければならない。
それは昼と夜や満潮と干潮、新月と満月や四季を経て、点で終わるか線と繋ぐか篩に掛けられる。
 
釣り人はいつだって、水のことを考える。
釣り人はいつだって、魚が針に掛かる瞬きを思い起こす。
釣り人はいつだって、自らのモノサシではかる大物を望み焦がれる。
 
でも、"それだけ"じゃあ勿体ない。ここ数日でロッドを持たずに歩いた7時間を経て、少なくとも「それだけじゃ勿体ない」と思った。
 
魚を釣ることが好きなのか、はたまた魚が好きなのか?
そこにSNSが必要なのか、ありのままの自然だけでは足りないのか?
水辺に立つことだけが釣りなのか、ロッドを持たず山を登れば釣りとは言えないのか?
 

 
梅の花と思いながらシャッターを切ったところで、土手の下に赤く咲き広がる梅の木々に気づいた。
 
「じゃあ一体、この花はなんだろう?」
 
知るべきは無知の量であり線を繋げるピースの精度。今気付けたことを幸運と捉える以外に、今の僕に疑うところなどあるものか。
 
 
 
 「あの橋脚間に引っかかってしまう障害物はあるだろうか?」
 
新月の夜。川の中央に浸かり水流を腰に受けながら右手の人差し指にラインを掛けた状態で、光の届かない橋の下の暗闇に目を凝らしていた。
 
無くしたくないものと、得ることが可能ならと望むもの。どちらとも"出来れば"と頭に付く中途半端な思いが、そのたった一投を躊躇わす原因。
 
もしかしたらそのまま躊躇って帰ってしまえば良いと、向こうからしたらそう思うだろうか?
いや、そこに疑う余地なんてないのに決まっていつも都合良く物事を捉えようとする身勝手さに、いつになったら決着が着くというのだろうか。
 

 
知恵比べなんて偉そうなことを言えるような立場には到底ない。
 
手の中におさまる電子機器で空からの景色を眺め、日の出時刻や月の満ち欠けもろくに覚えずともそこに立てることが、全てを物語っている。
今夜はどれだけ着込めばいいのかも分かり、吹く風の向きと潮の流れの向きも頭に入れて水辺に立てる。何よりこの場所になんて、自分の足でやってきていない。
 
アンフェアのまま繰り出す次のキャストに、一体どんな価値があろうか。それすら考えの外に維持したまま、表面だけの喜びに笑みを零す儀式を重ねるつもりか。
 
もっと深く、もっと広く。ポジティブな一面を取っ払ったとした「ただ釣れればそれで良い」なんて言葉に、今の僕はこれっぽっちも惹かれるものか。
 
 
 
 その日切り取ったいくつもの風景の写真を、暖房の効いた部屋でコーヒーを飲みながら記録してゆく。
一通りそれらを整理すると、今度は言葉を使ってそれらを表現しようと文字を打ち込んでゆく。
 
何をどう表現することによって、どのように伝えたいのかを模索する。それなのに最近は考えれば考える程自分の言葉を見失い、文字を重ねる手は続きを打つことをやめた。
 
切り取った風景と紡いだ言葉で拡げることを表現だと思っていたけど、どうやらそれは根のない樹木の葉音のようなものかもしれないと自問自答する。
 
写真はその一瞬を留め、言葉は過去を振り返る。それはやり方の問題か持って生まれた才の問題なのか。
 
やるかやらないとか、プラスとかマイナスとか、そんな対極のことばかりがループしているネガティブな内は、とてもじゃないがその土俵には立てないと自覚する。
 
 
水面に映るその影は、勘違いのまま歩く、自然の命の泥棒だ。
 
 

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