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村岡昌憲
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▼ 北海道遠征 その1
- ジャンル:日記/一般
- (area-釣行記-)
北海道遠征 その1
2011年 秋。
考えれば考えるほど、自然という言葉の意味が曖昧になっていく。
人間が都市というものを作り出し、その対比としての自然ということではないのだ。
その都市ですらも自然であり、
人間そのもの、その心に宿るあらゆる想いすらも自然そのものなのだと。

PC環境の方はぜひBGMをご利用ください。
今年、大地震と大津波がこの国を襲い、本当にたくさんの命が奪われた。
自然が自然を奪っていく。
自然が作り出す、命の循環。
何かが死ぬことで、何かが生まれる。
誰かが思うことで、誰かの何かが変わる。
そう、それもすべて自然。

目の前の景色には、過去も未来も全くない。
まさに今のこの瞬間だけが少しずつ流れていて、そして僕もその今を生きている。
風は、葉を揺らし、音を立てることで、自らの存在を示す。
太陽は、狂気のような鮮やかさで、辺りの景色を映し出そうとする。
全て今のこの時間を過ごしている。

迫り来る、冬はその鮮やかさを全て奪って、その存在を僕らに示している。
空の鮮やかさは地上の無彩色のためにあるのか。

そして、そこにいるのが僕たちだけということ。
そんな中にいると、人間というものが自然の懐の中にいる、ほんとうに小さな小さなものであることがわかる。
そして、全ては生きていて、全ては死に向かっていくのだ。

太陽は時間と共に輝きを失い、そして漆黒が僕らを包み出す。
名残を惜しむかのような最後の鮮やかさが僕らの頬をかすかに照らしていた。
そして、その頬を薄暮の風が優しく、そしてひんやりと撫でていく。
押し迫る冬は、全ての命に対して次への連続性を問い掛ける。
クマもエゾシカもウサギもキツネも、冬を乗り越えるために今を生きる。
そして、今を生きることができなかったものに対して、冬は容赦なく命を奪っていく。

深夜、僕はスズキのことを考えていた。
この地にいないスズキも、今この瞬間、次なる世代のためにどこかでそれぞれ生きている。
そこには妥協もなく、惰性もなく、羨望もない。
だけど僕たちはどうだろうか。

夜が明けると、何事もなかったように辺りは光に満ちていた。
迫り来る冬が与える最後のチャンスのような暖かさが僕らを包み込む。
凛と張り詰めた空気は、シカにわずかな木の実のわずかな彩度を示し、餌のありかを教えているようだ。

死は自然。
死、そのものが美しい。
音もなく、静かに川を下る、ほとばしる命の抜け殻。
僕はロッドを握りしめたまま、ずっと見えなくなるまで眺めていた。
自然の懐の中に抱かれた時、死ぬことと、生きること、その相違点は非常に少ない。
先月、僕の元を去った愛猫は今まさにその大いなる自然に帰りゆく。
その命は土となり、虫となり、草となり、木となって、地球上を回っていく。
どこにいくのかもわからない。
だけど、それが自然の最も崇高な形。
そして、形はなくなっても、愛猫は生き続ける。
僕が生きている限り、愛猫は僕の心の中で生き続ける。
僕が死ぬ時、愛猫の命は最後を迎えるのかもしれない。
だけど、僕の命は愛猫の命を抱きながら、誰かの心の中で生き続けるのだ。

そうして、命は生き続けていく。
太陽も空も雲も教えてくれている。
自分にとって、最初で最後の39回目の冬の訪れを。
そして、あと何度、この冬を迎えることができるのか、それは誰もわからないということを。

ここに誰もいないということが、どれほど心の安らぎになるかということを
心が火傷している君は知っているだろうか。

おのれの生きる力の無さを、何かのせいにしていないか。
おのれの勇気の無さを、何かのせいにしていないか。
おのれの感受性の無さを、何かのせいにしていないか。

静けさが行き過ぎて、壮烈となる。
その中から、輝く命が飛び出した。

木々は倒れることを恐れていなかった。
木々は力の限り、上を目指した。
やがて雪が降り、多くの木々はその重みで倒れる。
しかし、その折り重なってできた隙間で多くの命が冬を生き抜く。
木の命は虫の命を救い、虫の命は、春にまた何かの命となる。
全てが回っている。

残したいと思う気持ち。
それは人間だけであろうか。
だから人は絵を描き、写真を撮り、文を書くのか。
それは自然に抗うことなのか。

絵で飯を食っている人間が、絵で人間を攻撃する。
写真で飯を食っている人間が、写真で人間を攻撃する。
文章で飯を食っている人間が、文章で人間を攻撃する。
それはこの圧倒的な美しさの中でも、できることなのだろうか。
その事の深い哀しみに気付くだろうか。

夢はずっと消えない。
感受性を開いていれば、夢の持ち主が誰かもわからないけど、残っているもので夢は見られる。
それが人間のすごいところなんだ。

背負うものを全て下ろせる人間がいる。
背負うものを全て下ろせない人間がいる。
多くのものを背負って、幸せだと思う時がある。
多くのものを背負って、不幸だと思う時もある。

青空に飛び出していくプラグは僕の夢だ。
その夢が夢のままに終わることもいいことなのかもしれない。
夢がある限り、僕はまたこの地に立つから。

そして、夢が叶う瞬間がある。
心が震え、手足が震え、そして命が輝く。
その小さな小さな命の喜びは、北海道の圧倒的な大自然の中でも鮮烈に輝いていた。

その2へ続く。
2011年 秋。
考えれば考えるほど、自然という言葉の意味が曖昧になっていく。
人間が都市というものを作り出し、その対比としての自然ということではないのだ。
その都市ですらも自然であり、
人間そのもの、その心に宿るあらゆる想いすらも自然そのものなのだと。

PC環境の方はぜひBGMをご利用ください。
今年、大地震と大津波がこの国を襲い、本当にたくさんの命が奪われた。
自然が自然を奪っていく。
自然が作り出す、命の循環。
何かが死ぬことで、何かが生まれる。
誰かが思うことで、誰かの何かが変わる。
そう、それもすべて自然。

目の前の景色には、過去も未来も全くない。
まさに今のこの瞬間だけが少しずつ流れていて、そして僕もその今を生きている。
風は、葉を揺らし、音を立てることで、自らの存在を示す。
太陽は、狂気のような鮮やかさで、辺りの景色を映し出そうとする。
全て今のこの時間を過ごしている。

迫り来る、冬はその鮮やかさを全て奪って、その存在を僕らに示している。
空の鮮やかさは地上の無彩色のためにあるのか。

そして、そこにいるのが僕たちだけということ。
そんな中にいると、人間というものが自然の懐の中にいる、ほんとうに小さな小さなものであることがわかる。
そして、全ては生きていて、全ては死に向かっていくのだ。

太陽は時間と共に輝きを失い、そして漆黒が僕らを包み出す。
名残を惜しむかのような最後の鮮やかさが僕らの頬をかすかに照らしていた。
そして、その頬を薄暮の風が優しく、そしてひんやりと撫でていく。
押し迫る冬は、全ての命に対して次への連続性を問い掛ける。
クマもエゾシカもウサギもキツネも、冬を乗り越えるために今を生きる。
そして、今を生きることができなかったものに対して、冬は容赦なく命を奪っていく。

深夜、僕はスズキのことを考えていた。
この地にいないスズキも、今この瞬間、次なる世代のためにどこかでそれぞれ生きている。
そこには妥協もなく、惰性もなく、羨望もない。
だけど僕たちはどうだろうか。

夜が明けると、何事もなかったように辺りは光に満ちていた。
迫り来る冬が与える最後のチャンスのような暖かさが僕らを包み込む。
凛と張り詰めた空気は、シカにわずかな木の実のわずかな彩度を示し、餌のありかを教えているようだ。

死は自然。
死、そのものが美しい。
音もなく、静かに川を下る、ほとばしる命の抜け殻。
僕はロッドを握りしめたまま、ずっと見えなくなるまで眺めていた。
自然の懐の中に抱かれた時、死ぬことと、生きること、その相違点は非常に少ない。
先月、僕の元を去った愛猫は今まさにその大いなる自然に帰りゆく。
その命は土となり、虫となり、草となり、木となって、地球上を回っていく。
どこにいくのかもわからない。
だけど、それが自然の最も崇高な形。
そして、形はなくなっても、愛猫は生き続ける。
僕が生きている限り、愛猫は僕の心の中で生き続ける。
僕が死ぬ時、愛猫の命は最後を迎えるのかもしれない。
だけど、僕の命は愛猫の命を抱きながら、誰かの心の中で生き続けるのだ。

そうして、命は生き続けていく。
太陽も空も雲も教えてくれている。
自分にとって、最初で最後の39回目の冬の訪れを。
そして、あと何度、この冬を迎えることができるのか、それは誰もわからないということを。

ここに誰もいないということが、どれほど心の安らぎになるかということを
心が火傷している君は知っているだろうか。

おのれの生きる力の無さを、何かのせいにしていないか。
おのれの勇気の無さを、何かのせいにしていないか。
おのれの感受性の無さを、何かのせいにしていないか。

静けさが行き過ぎて、壮烈となる。
その中から、輝く命が飛び出した。

木々は倒れることを恐れていなかった。
木々は力の限り、上を目指した。
やがて雪が降り、多くの木々はその重みで倒れる。
しかし、その折り重なってできた隙間で多くの命が冬を生き抜く。
木の命は虫の命を救い、虫の命は、春にまた何かの命となる。
全てが回っている。

残したいと思う気持ち。
それは人間だけであろうか。
だから人は絵を描き、写真を撮り、文を書くのか。
それは自然に抗うことなのか。

絵で飯を食っている人間が、絵で人間を攻撃する。
写真で飯を食っている人間が、写真で人間を攻撃する。
文章で飯を食っている人間が、文章で人間を攻撃する。
それはこの圧倒的な美しさの中でも、できることなのだろうか。
その事の深い哀しみに気付くだろうか。

夢はずっと消えない。
感受性を開いていれば、夢の持ち主が誰かもわからないけど、残っているもので夢は見られる。
それが人間のすごいところなんだ。

背負うものを全て下ろせる人間がいる。
背負うものを全て下ろせない人間がいる。
多くのものを背負って、幸せだと思う時がある。
多くのものを背負って、不幸だと思う時もある。

青空に飛び出していくプラグは僕の夢だ。
その夢が夢のままに終わることもいいことなのかもしれない。
夢がある限り、僕はまたこの地に立つから。

そして、夢が叶う瞬間がある。
心が震え、手足が震え、そして命が輝く。
その小さな小さな命の喜びは、北海道の圧倒的な大自然の中でも鮮烈に輝いていた。

その2へ続く。
- 2011年11月7日
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