アクセスカウンター

  • 今日のアクセス:367
  • 昨日のアクセス:724
  • 総アクセス数:17418931

プロフィール

村岡昌憲

東京都

プロフィール詳細

カレンダー

<< 2024/4 >>

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

検索

:

アーカイブ

2018年 2月 (3)

2018年 1月 (4)

2017年12月 (1)

2017年11月 (3)

2017年10月 (3)

2017年 8月 (1)

2017年 7月 (7)

2017年 6月 (4)

2017年 5月 (4)

2017年 4月 (2)

2017年 3月 (4)

2017年 2月 (4)

2017年 1月 (2)

2016年12月 (1)

2016年11月 (2)

2016年10月 (4)

2016年 9月 (4)

2016年 8月 (2)

2016年 7月 (4)

2016年 6月 (3)

2016年 5月 (5)

2016年 4月 (3)

2016年 3月 (6)

2016年 2月 (3)

2016年 1月 (5)

2015年12月 (3)

2015年11月 (7)

2015年10月 (12)

2015年 9月 (11)

2015年 8月 (7)

2015年 7月 (15)

2015年 6月 (7)

2015年 5月 (11)

2015年 4月 (13)

2015年 3月 (5)

2015年 2月 (5)

2015年 1月 (8)

2014年12月 (2)

2014年11月 (9)

2014年10月 (11)

2014年 9月 (11)

2014年 8月 (11)

2014年 7月 (8)

2014年 6月 (8)

2014年 5月 (10)

2014年 4月 (15)

2014年 3月 (10)

2014年 2月 (7)

2014年 1月 (8)

2013年12月 (5)

2013年11月 (9)

2013年10月 (8)

2013年 9月 (8)

2013年 8月 (13)

2013年 7月 (9)

2013年 6月 (9)

2013年 5月 (7)

2013年 4月 (8)

2013年 3月 (9)

2013年 2月 (15)

2013年 1月 (12)

2012年12月 (4)

2012年11月 (10)

2012年10月 (3)

2012年 9月 (5)

2012年 8月 (9)

2012年 7月 (7)

2012年 6月 (3)

2012年 5月 (4)

2012年 4月 (5)

2012年 3月 (6)

2012年 2月 (3)

2012年 1月 (9)

2011年12月 (8)

2011年11月 (13)

2011年10月 (9)

2011年 9月 (8)

2011年 8月 (9)

2011年 7月 (10)

2011年 6月 (7)

2011年 5月 (12)

2011年 4月 (7)

2011年 3月 (8)

2011年 2月 (7)

2011年 1月 (7)

2010年12月 (10)

2010年11月 (10)

2010年10月 (9)

2010年 9月 (7)

2010年 8月 (9)

2010年 7月 (8)

2010年 6月 (9)

2010年 5月 (11)

2010年 4月 (8)

2010年 3月 (7)

2010年 2月 (7)

2010年 1月 (5)

2009年12月 (7)

2009年11月 (8)

2009年10月 (8)

2009年 9月 (10)

2009年 8月 (13)

2009年 7月 (10)

2009年 6月 (4)

2009年 5月 (5)

2009年 4月 (5)

2009年 3月 (12)

2009年 2月 (5)

2009年 1月 (2)

2008年12月 (5)

2008年11月 (1)

2008年10月 (7)

2008年 9月 (9)

2008年 8月 (6)

2008年 7月 (8)

2008年 6月 (8)

2008年 5月 (9)

2008年 4月 (11)

2008年 3月 (10)

2008年 2月 (8)

2008年 1月 (2)

2007年12月 (5)

2007年11月 (4)

2007年10月 (8)

2007年 9月 (3)

2007年 8月 (2)

2007年 7月 (5)

2007年 6月 (6)

2007年 5月 (13)

2007年 4月 (11)

2007年 3月 (11)

2007年 2月 (7)

2007年 1月 (10)

2006年12月 (4)

2006年11月 (10)

2006年10月 (20)

2006年 9月 (13)

2006年 8月 (9)

2006年 7月 (9)

2006年 6月 (7)

2006年 5月 (14)

2006年 4月 (21)

2006年 3月 (8)

2006年 2月 (4)

2006年 1月 (12)

2005年12月 (6)

2005年11月 (1)

2005年10月 (3)

2005年 9月 (7)

2005年 8月 (3)

2005年 7月 (3)

2005年 6月 (13)

2005年 5月 (14)

2005年 4月 (6)

2005年 3月 (16)

2005年 2月 (9)

2005年 1月 (5)

2004年12月 (3)

2004年11月 (12)

2004年10月 (7)

2004年 9月 (5)

2004年 8月 (11)

2004年 7月 (8)

2004年 6月 (7)

2004年 5月 (8)

2004年 4月 (3)

2004年 3月 (5)

2004年 2月 (4)

2004年 1月 (5)

2003年12月 (9)

2003年11月 (10)

2003年10月 (7)

2003年 9月 (8)

2003年 8月 (10)

2003年 7月 (14)

2003年 6月 (9)

2003年 5月 (5)

2003年 4月 (5)

2003年 3月 (6)

2003年 2月 (10)

2003年 1月 (3)

2002年12月 (4)

2002年11月 (6)

2002年10月 (3)

2002年 9月 (10)

2002年 8月 (3)

2002年 7月 (2)

2002年 6月 (8)

2002年 5月 (4)

2002年 4月 (3)

2002年 3月 (9)

2002年 2月 (4)

2002年 1月 (5)

2001年12月 (9)

2001年11月 (5)

2001年10月 (2)

2001年 9月 (6)

2001年 8月 (7)

2001年 7月 (6)

2001年 6月 (3)

2001年 5月 (5)

2001年 4月 (2)

2001年 3月 (2)

2001年 2月 (5)

2001年 1月 (3)

2000年11月 (1)

2000年10月 (2)

2000年 9月 (1)

2000年 8月 (3)

2000年 7月 (3)

2000年 6月 (1)

QRコード

11月19日は

  • ジャンル:日記/一般
今から14年前。

正直な話で言えば、今の数倍の情熱でスズキを追いかけていた。



高校生からこの釣りを始めて無我夢中の時代を経て、19年前にマーゲイから始まった僕のプロアングラーとしてのStoryはX-80SWを産み、ロクテンの時代を作り、そしてレアフォース、ネオンナイトの時代へと続いていった。

そんな最中、大きな転機になったことがある。

それはミラクルワークスとの出会いであり、増田聡氏との出会いだった。




最初は激しい対立から始まったが、勇気を出して神奈川に乗り込んでいったら意気投合し、色々なしがらみの中で自分の立場を理解してくれながら、立場的には遠く、精神的には近い位置で自分を支えてくれた。

プロアングラーとして、という前に一人の人間として未熟な自分を、時に小便をちびるほどの怖さで叱ってくれた。

その経験、言葉は今も自分の中に確固として存在している。


自分がテレビ番組に出る時にシーバスという言葉をあまり使わず、スズキという言葉を多用するのは彼の大きな影響である。

彼は決してシーバスという言葉を使わなかった。

僕は60cm以下をシーバスと呼び、それ以上をスズキと呼ぶことに決めた。





そして今のシーバス業界にある程度浸透しているリリーススタイルを最初に提唱し、実践していったのも増田氏を中心とするSBMのメンバー達だった。

シーバスブームの発祥の地である湘南は、一方で資源枯渇の最初の舞台にもなった。

減りゆくシーバスの魚影に、増田氏は「スズキを殺すな。」というメッセージを投げかけていた。

ftdj5e9gt5d32xwzpjhu-179260a9.jpg
※ライトも竿もボガグリップも全てが懐かしい(笑)




あの時の僕は80up、90upのスズキを東京湾奥で次々に捕獲していて、湾奥メーターオーバーも時間の問題と思えるところまで詰まっていたように思う。
b4xri44srnzupfs8pu84_480_480-1dca53ea.jpg



だが、結局この96cmで記録は止まった。
bpre9yocm8fh8yocgxgz_480_480-9f0d24a3.jpg






「おい、村岡。メーターオーバーは狙わなければ釣れねーんだよ。」

という言葉はまさに真実である。

マグレで出る事もあるけれど、それを待っていてもそれは宝くじが自分にもいつか当たると思って買い続けているようなものだ。



「60cmを10本釣って70が1本出るのがスズキ釣りだ。」

「ランカーを釣りたければ70cm10本釣れる釣り場でやれ。」

「メーター超えたければ90cmをひたすら狙え。」


地方ではそれを忠実に狙って、過去に2つのメーターオーバーをこの手にしたけれど、東京湾奥では未だに届いていない。





そして東京湾奥にも訪れた資源枯渇。

80cmになるのに10年も掛かるスズキを殺していけば減るのは当たり前。

こういう話を書けば、すぐに漁師が獲る量がどうのこうのと始まるがそういうことじゃない。



釣り人の目の前にいた魚は釣り人が殺している。

目の前にあんなにいた魚はほとんどいなくなった。

それは当時のスズキ釣りの最前線にいた人たちには、明らかな実感として残っているだろう。

俺もその罪の先鋒を担いながら、リリースを提唱し続けていたが、流れを変えるまではできなかった。





が、そんなに悲観はしていない。

スズキが釣れなくなれば、釣り人は減り、業界は廃れる。

釣り人も業界も勢いを細めれば10年でスズキは戻る。

この地球の長い時間軸から見たらそれだけのことだ。









だけど、あの頃には本当に夢があった。

今も夢はあるのだろうけど、なんでかな、追う雰囲気が無くなった気がする。

日本も変わったし、自分も周囲も歳を取ったからだろうか。



タックルボックスに眠る当時のルアー達も、毎年1度整理整頓されながら、今も出番を待っているのかもしれない。
dom6wxaucyficseogio2_480_480-d4d995a1.jpg



何でいきなり、こんな事を書いているのかというと、先週、館山に行った時にサウスエンドの遠藤さんと話し込んだからだ。

半分以上の話は、当時の、増田氏の、ミラクスワークスの話だった。

そしたら急に投げたくなったんだ。



「遠藤さん、久しぶりに投げませんか?」

「いいね。」


「だったら11月19日にしましょうよ。」

「それはいいね。あいつも喜ぶよ。」



ミラクルワークスのルアー達を持っている古き<s>悪き</s>良きスズキ釣りの人たちよ。

11月19日の夜は彼の2回目の命日。

旧江戸川あたりで彼を偲びつつ、ミラクルワークスを投げませんか?



 

コメントを見る