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関根崇暁
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▼ 自分らしくあるが為に行く
このところ仕事は相変わらずの激務で日付を超えてから深夜に帰宅する日々。
その日々にストレスを感じている訳ではないけれど肉体的にも精神的にも疲労が溜まっている。当然、早起きなど出来るはずも無く、夜の釣行すら向う気力が続かない。
釣りがストレス発散だという人もいるけれど、僕にとってはそんな事は無く精神を肉体の真ん中に入れなおす為に必要な時間である。
一旦肉体と精神がバラバラになると色々な事に支障をきたす。
身体を休める事は大切かもしれないが走り続ける事で常に前向きに何事も取り組む事が出来るものだと思っている。
一度羽を休めてしまえば二度と飛び立つ事が出来なくなってしまう様なそんな気がしている。
自分が自分らしくいる事が出来る場所、釣師が釣師らしく在るがままの姿で居られる場所、それは特別な場所なんかではなく身近にある場所だったりもする。
釣りは楽しいか?と問われれば楽しいのかもしれないが、僕にとっては軽薄な娯楽ではなく、精神を磨く為にあるもの。
人間世界での生活では野生の勘を忘れてしまう。
何が危険で何が安全で何が食べられるのか?そして天候はどうか?季節はどこに進んでいるのか?本来、生き物として生きていた時代に一番大切だった部分、それを忘れたくないというのが心の奥底にある部分かもしれない。
嘗て山や海や川は生活圏内、知り得る世界の境界線であり容易にそれを超える事は出来ないものであるが、現代はそれを許してくれる。
山越えの道は整備されて車もある、カーナビで現在地を直ちに知る事すら出来る。
それでも時には腕から時計を外し、携帯電話を手放して。
自分の心の赴くままに進んでみよう。
きっと今は疲れているのじゃなく、精神が鈍っているのだと。
そして、そんな時は、充ても無く道を進むに限る。
我が青春時代の渓流ルアーを少し手入れして、それを握り締め。
僕は車のハンドルを握ると自宅を後にした。
自宅から見える山の稜線の向こう側にはどんな風景があるのだろうか?
僕は一山超えて稜線の向こう側へ行く事にした。
九州は意外に山深い。
そして里にはその土地の人の暮らしがある。
違う風土を感じながら僕は更に道を進んだ。
途中、個人経営であろう小さなガソリンスタンドで給油をする事にした。
店主が何やらはなしかけてくるので耳を傾けると。
「どちらかへお出かけですか?」という。
「ええ、ヤマメの棲む渓まで行くところです。」と答えると。
このあたりの沢には何処でもいますと笑顔で答えてくれた。
そんな、ささいな人のコミュニケーションも釣りの楽しみの一つであると思う。
道路沿いに咲いていた紫陽花。
6月、季節は梅雨なんだ。
棚田には苗が植えられて、その水面に山を写している。
日本の何処にでもあるような日本の風景、それがどれだけ美しいのか。
僕等が忘れてはいけないものであると思う。
幾つかの渓を見て回るが、どこも水量が多く遡行は難しそうだ。
車で移動しては目ぼしい場所を見つけて50mほど釣りをしてみる。
しかし生憎、魚からの挨拶は何も無い。
普段とは分水嶺を越えて別の水系に来ているのであるがいまひとつ何か歯車が合わない。
そしてまた一つ稜線を越えて、見慣れた渓を見下ろす。
あれこれ奮起して我武者羅にやっていたら、気が付けば元の場所に戻っていたなんて事は良くあることかもしれない。
車から降りて深呼吸をして、タバコに火を付けると、気持ちが決まった。
そうだ、あの渓へ行こうと。
程なくして駐車スペースに到着。
今日は誰の形見でもなく僕のタックル。
自分らしく釣りをしたいという気持ちがそれを選ばせる。
40年前のフランス製のリール、ミッチェル408と、これまた20年前の日本の竿、スーパーパルサーBWS-55の組み合わせ。
やっていて、枝や蜘蛛の巣にイライラしそうなボサ川、藪沢。
それでもテクニカルな部分が好きで、人が避けるような流れを選ぶ。
呆れるくらいの藪沢、当然良い流れを綺麗に流す事なんて出来ない。
それでもルアーで反応させて、後ろに付いた魚を足元でバイトさせる。
アップストーリームから最後にJ字回収をして追いつきバイトというメソッド。
やっぱり君か。それでも嫌いじゃない。
そしてヤマメ、釣れるまでに苦労すればするほどこの美しさが記憶に焼き付く、そしてどれだけ写真に撮っても再現できない色彩、野生の宝石。
深く入り込めばやがて薄暗い流れになり藪も消える。
僕がこの現実離れした空間から普段の生活にに戻るまであと猶予は1時間。
既に気持ちは満ちた。
あと一つで最後にしようと決める。
そして〆に相応しい良い魚が出てくれた。
やはり遠くの釣り場へ行けば良いことばかりなんて事は無い。
自分で選んだホームフィールドに立ち続けて行く事の大切さをまた一つ学んだ気がする。
退渓は、林道に出るまで暫く、この獣臭い鹿の道を辿る。
疲れた身体に鞭を打ち、思わず「よいしゃ!」掛け声を上げる。
当然、選んだ言葉ではく。
それは身体の奥から吐きだれた言葉、きっと鳴声かもしれない。
野生に触れて野生を取り戻す。
全ては自分らしく生きる為に必要な事なのだと。
釣りはきっとそういうものだと。
良い釣りだった、これでまた頑張る事が出来る。
孤独なアングラーであるという事、それもそれほど悪くは無い。
その日々にストレスを感じている訳ではないけれど肉体的にも精神的にも疲労が溜まっている。当然、早起きなど出来るはずも無く、夜の釣行すら向う気力が続かない。
釣りがストレス発散だという人もいるけれど、僕にとってはそんな事は無く精神を肉体の真ん中に入れなおす為に必要な時間である。
一旦肉体と精神がバラバラになると色々な事に支障をきたす。
身体を休める事は大切かもしれないが走り続ける事で常に前向きに何事も取り組む事が出来るものだと思っている。
一度羽を休めてしまえば二度と飛び立つ事が出来なくなってしまう様なそんな気がしている。
自分が自分らしくいる事が出来る場所、釣師が釣師らしく在るがままの姿で居られる場所、それは特別な場所なんかではなく身近にある場所だったりもする。
釣りは楽しいか?と問われれば楽しいのかもしれないが、僕にとっては軽薄な娯楽ではなく、精神を磨く為にあるもの。
人間世界での生活では野生の勘を忘れてしまう。
何が危険で何が安全で何が食べられるのか?そして天候はどうか?季節はどこに進んでいるのか?本来、生き物として生きていた時代に一番大切だった部分、それを忘れたくないというのが心の奥底にある部分かもしれない。
嘗て山や海や川は生活圏内、知り得る世界の境界線であり容易にそれを超える事は出来ないものであるが、現代はそれを許してくれる。
山越えの道は整備されて車もある、カーナビで現在地を直ちに知る事すら出来る。
それでも時には腕から時計を外し、携帯電話を手放して。
自分の心の赴くままに進んでみよう。
きっと今は疲れているのじゃなく、精神が鈍っているのだと。
そして、そんな時は、充ても無く道を進むに限る。
我が青春時代の渓流ルアーを少し手入れして、それを握り締め。
僕は車のハンドルを握ると自宅を後にした。
自宅から見える山の稜線の向こう側にはどんな風景があるのだろうか?
僕は一山超えて稜線の向こう側へ行く事にした。
九州は意外に山深い。
そして里にはその土地の人の暮らしがある。
違う風土を感じながら僕は更に道を進んだ。
途中、個人経営であろう小さなガソリンスタンドで給油をする事にした。
店主が何やらはなしかけてくるので耳を傾けると。
「どちらかへお出かけですか?」という。
「ええ、ヤマメの棲む渓まで行くところです。」と答えると。
このあたりの沢には何処でもいますと笑顔で答えてくれた。
そんな、ささいな人のコミュニケーションも釣りの楽しみの一つであると思う。
道路沿いに咲いていた紫陽花。
6月、季節は梅雨なんだ。
棚田には苗が植えられて、その水面に山を写している。
日本の何処にでもあるような日本の風景、それがどれだけ美しいのか。
僕等が忘れてはいけないものであると思う。
幾つかの渓を見て回るが、どこも水量が多く遡行は難しそうだ。
車で移動しては目ぼしい場所を見つけて50mほど釣りをしてみる。
しかし生憎、魚からの挨拶は何も無い。
普段とは分水嶺を越えて別の水系に来ているのであるがいまひとつ何か歯車が合わない。
そしてまた一つ稜線を越えて、見慣れた渓を見下ろす。
あれこれ奮起して我武者羅にやっていたら、気が付けば元の場所に戻っていたなんて事は良くあることかもしれない。
車から降りて深呼吸をして、タバコに火を付けると、気持ちが決まった。
そうだ、あの渓へ行こうと。
程なくして駐車スペースに到着。
今日は誰の形見でもなく僕のタックル。
自分らしく釣りをしたいという気持ちがそれを選ばせる。
40年前のフランス製のリール、ミッチェル408と、これまた20年前の日本の竿、スーパーパルサーBWS-55の組み合わせ。
やっていて、枝や蜘蛛の巣にイライラしそうなボサ川、藪沢。
それでもテクニカルな部分が好きで、人が避けるような流れを選ぶ。
呆れるくらいの藪沢、当然良い流れを綺麗に流す事なんて出来ない。
それでもルアーで反応させて、後ろに付いた魚を足元でバイトさせる。
アップストーリームから最後にJ字回収をして追いつきバイトというメソッド。
やっぱり君か。それでも嫌いじゃない。
そしてヤマメ、釣れるまでに苦労すればするほどこの美しさが記憶に焼き付く、そしてどれだけ写真に撮っても再現できない色彩、野生の宝石。
深く入り込めばやがて薄暗い流れになり藪も消える。
僕がこの現実離れした空間から普段の生活にに戻るまであと猶予は1時間。
既に気持ちは満ちた。
あと一つで最後にしようと決める。
そして〆に相応しい良い魚が出てくれた。
やはり遠くの釣り場へ行けば良いことばかりなんて事は無い。
自分で選んだホームフィールドに立ち続けて行く事の大切さをまた一つ学んだ気がする。
退渓は、林道に出るまで暫く、この獣臭い鹿の道を辿る。
疲れた身体に鞭を打ち、思わず「よいしゃ!」掛け声を上げる。
当然、選んだ言葉ではく。
それは身体の奥から吐きだれた言葉、きっと鳴声かもしれない。
野生に触れて野生を取り戻す。
全ては自分らしく生きる為に必要な事なのだと。
釣りはきっとそういうものだと。
良い釣りだった、これでまた頑張る事が出来る。
孤独なアングラーであるという事、それもそれほど悪くは無い。
- 2015年6月9日
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