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▼ 管理釣り場でふと思う

釣りとは、暴力的で哲学的な娯楽である。
この愚かな私が朝も早よから竿を担いで海辺に向かうのは、別に早起きが好きだからでも、健康志向でも、ましてや魚を愛しているからでもない。
釣りたいからである。食べたいからである。

魚にとってはとんだ迷惑な話だが、こちらとしては至って真剣なのだ。
なんとしても魚を針にかけたい。欺きたい。引きずり出したい。できればドヤ顔したい。

そもそも釣りという行為は、いかにして魚をだますかという一点に尽きる。
その過程はいろいろあれど、結局のところ生き物を傷つける行為に他ならない。
生き物を傷つける為の道具は日進月歩で進化しており、30gの鉛の塊を100メートル以上の彼方へと投げ飛ばせる時代に到達した。
これはもはや趣味の名を借りた局地的兵器開発である。

だが、釣り人(少なくとも私は)はそんな事実に目を背けながら、あるいは自覚し、自問自答しながら、今日も水辺に立つ。
なぜか?
それはおそらく、この行為が人間の業そのものだからだ。
そう、釣りは業である。
深淵からにじみ出るような欲求。
「釣りたい」という名の煩悩が、理性の首を軽々とひねってしまう。
業とはつまり本能だ。
もはや抗う術もない。
そして、釣れた瞬間に生じる快楽たるや。
もはや正気を保つ事すら難しい。
平静を装ってはいるが、炸裂する歓喜を表す方法が見当たらないだけで、
その心の内は大変なお祭り騒ぎである。
それがあるから、私は今日もまた業竿を振るのである。
とはいえ、人間だからこそ気づいてしまう問題もある。
業を業のままに解き放ち続ければ、資源、つまり魚は枯渇する。
例えばメバル。愛らしい目と、ふっくらとした身。小気味良い引き。最高の釣り物の一つだ。
だが、彼らは成長が遅い上、場所に付く魚である事から、一度抜かれると二度と帰ってこない。(ような気がする)
「いつかまた会える」なんて思ってはいけない。
恋もメバルも、去ったら戻らないのが世の常である。
だから私は、リリースという文化を真面目に受け止め、節度ある釣行を重んじるようになった。
また、業の申し子とでも呼ぼうか。管理釣り場を利用する事も増えてきた。
あらかじめ放流された鱒類に手も足も出ないという情けなさを噛みしめながら、私は思う。
「人の業を満たすには、それなりの節度が必要なのだ」と。
すれっからしの魚たちに翻弄されながら、それでも私は釣り場へと足を運び続けるのだろう。
業と快楽とほんの少しの理性を背負って。
- 2025年4月7日
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