投げて巻く https://www.fimosw.com/ 釣果情報・シーバス、メバル、イカ、チヌ、青物、ヒラメ、マゴチ...ソルトアングラー支援サイト、日本最大のWEB釣り大会『凄腕』、釣り動画fimoTVなど(会員登録無料) かつて釣れた、という物語を増やしたくはないのです https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5or894kf7y 2025-04-17T20:45:00+09:00 そんな回顧録じみたセリフが飛び交う釣り場ほど、私は寂しさを覚える。



なぜか。
なぜならそれは、我々がまいた種によって失われた風景だからである。

たとえば、マナーの悪化で釣り禁止となった堤防。
あるいは、果てしない釣果自慢の末に、すっかり姿を消してしまった魚たち。

これらは神の機嫌ではないし、自然のいたずらでもない。
我々釣り人の、ちょっとした業(ごう)の積み重ねに過ぎない。



まずはマナーについて申そう。
釣り場にゴミを捨てる。
これは、愛してやまない水辺に対する、最大級の裏切りである。
漁港で漁師と揉めたという話も聞くが、それもまた、十中八九は「釣り人」という種族に対する長年の積もり積もったストレスの結果なのだろう。

「いきなり怒鳴られたんです!」という主張もある。
だが私はこう思う。人間関係における「いきなり」などこの世にそう多くは存在しない。
だいたいは、ちまちまと積もった何かがあるのだ。
ほんの少し、相手方の背景に思いを馳せる余裕を持ちたい。

ちなみに私は漁師さんに怒られたことがない。なぜなら礼を尽くすからである。
どんな礼か。いきなり酒でも酌み交わすのか?そうではない。
挨拶だけでも、人間関係という名の海はずいぶんと穏やかになるものだ。

それでも、どうにもこうにも話が通じない、こじれの化身のような方に出くわした場合は?
もう、潔くあきらめて他の釣り場へ旅立てばよい。
日本は広いのだ。こじれや場所に執着するより、魚に執着した方が健康的である。



さて、次は釣りすぎ問題である。
これはもう、自制と理性、あるいはルール。その中での揺れ動きの話だ。

私は陸っぱり派ではあるが、船釣りにも時折浮気する。
中でもバチコンアジング。あれはもう、釣れてしまうのである。

釣れる、釣れてしまう、釣れすぎて怖くなる。
楽しすぎる釣りだ。

実は一時期、束釣り(100匹越え)を狙い通い詰めた事もある。
しかし問いたい。100匹釣って、どうするのか。

冷蔵庫を満杯に? 
冷凍庫をアジで埋め尽くし、ファラオの軍勢よろしく並べて悦に入る?
いや、ご近所に配るのか?それとも魚好きの親戚が自宅の周りに円を描くように住んでいるのか?

もちろん、住んでいない。

もちろん、人には人の事情がある。私の想像力では到底及ばぬ深い背景もあるかもしれない。
しかし、忘れてはならぬのは、釣りもまた、漁であるという事実。



そして漁には、確かな「圧力」がある。

ざっくりと算数をしてみよう。

1人30匹釣ったとして、10人乗りの船なら1便で300匹。
これが年間200日稼働すると……1年で60,000匹のアジが海から消える。

6万匹だ。これはもう、笑えない。
「たかが釣り」と思っていた背中に、じわじわと冷たい潮が迫ってくるのを感じないだろうか。

ましてやこんな船が全国にいくつもあるのだとしたら。
我々が思っているよりずっと、海には圧がかかっているのだ。

釣り船の集客方法も見直すべきではないかと思う。
「竿頭○○匹!」というアピールはわかりやすく魅力的だが、
1名あたりの上限匹数を定め、できれば「目標達成!船中全員個人上限に到達!」のような、
スマートな魅せ方をした方が、美学としても健やかである。

そして思うのだ。
この文章を読んで「それがどうした」と思うか、「これはまずい」と思うか。
それはきっと、その人の中にある釣り人としての流儀が問われているということなのではないか。

絶対の正解を論じているつもりは毛頭ない。
だがしかし、多少なりとも身近な問題提起はしているつもりだ。

最後に。
この手の話をする以上、妄想ではいかん。
根拠がなければ、ただの悲しき暗黒ポエムである。

というわけで、苦手な統計資料に脂汗を垂らしつつ、マアジの資源量についても調べた。結果はこうだ。

1996年:資源量ピーク(16.2万トン)

2022年:5.6万トンまで減少。約1/3以下。

若齢魚に偏っており、成熟魚(2歳以上)は少ない。

親魚量も低く、6.0万トン必要なところ2.6万トン。

漁獲圧は2020年まで過剰、2021年以降やや改善。

今後、漁獲圧を80%以下にまで抑え続ければ2031年までに回復可能性60%との試算。

こうしてみると、我々にできることは意外にあるように思う。
だからせめて、「かつて」の釣り場をこれ以上増やさぬように、今日も釣り場に立つ前に、少しだけ立ち止まりたい。
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Takuan
釣りたいのに、釣れない日々に釣られて https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5orjw96i7v 2025-04-15T08:00:00+09:00 仕事が手に付かぬことがある。しかもわりと頻繁に、である。
その理由は明白。わたしはただ、釣りに行きたいのだ。
釣りの合間に人生をやっているのだ、それも仕方がない。
 

毎週末、せめて半日でも竿を振りたい。
人としての体裁など、もうどうでもよくなるくらい、なりふり構わず自分の世界に没頭したいのである。
そして、それが叶わない事もある。なぜか。しがらみである。
 

本来、あまり口にはしたくない言葉である。
口にすればするほど己が「大人」になってしまったようで悔しい。
しかしここではあえて言おう。どうしようもないしがらみが、わたしをどうしようもなく縛るのだ。
 

「行きたい。行く。」
この単純明快な行動原理に従って生きられる人は、まことに幸福である。
そういう人を見ると、羨ましくて脇腹を小突きたくなるほどだ。
 

しかし。かといって。私もこの生活をイヤイヤやっているわけではない。
自ら選んだ結果である。悔いはない。いや、ないはずだ。ないったらないのだ。
 

しかし、心というものは時として、勝手に溢れる。
わたしは根が素直なのだ。実に困った話である。
 

実は先週、大阪へ出張していた。
もちろん、スーツケースの底にはアジングタックルをひっそりと忍ばせていた。
もはやこれは遠征時の作法である。南港のあの雰囲気が、妙に肌に合うのだから通わない手はない。
 

しかし、時間がなかった。体力もなかった。
初日、朝から晩まで、商談・雑談・相談。談に次ぐ談。
体力ではなく、もはや精神の海で延々と泳ぎ続けるような感覚。
宿に着いた頃には、口だけが有酸素運動をしていたな、という感想しか出てこない有様である。
 

結局、夜の港に、はたまた街に繰り出すでもなく、眠ってしまった。
これはもう、釣り人としての敗北宣言である。
 

翌朝。再び打ち合わせ。
Web会議という文明の利器が、私の時間を寸分の隙なく食い尽くしていく。
移動、会議、移動、会議…気が付くと飛行機の時間が来て、すごすごと帰路につくほかなかった。

今回の出張で得た教訓は二つ。
一、釣り道具を持っていれば釣りができると思うなかれ。
一、体力とコミュ力は、釣行より先に鍛えるべし。
 

とはいえ、今週末は釣りに行きたい。いや、行く。
さて、今夜もこっそりタックルを磨いておくとしよう。

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Takuan
足柄幽境にて、魚影と動画 https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5orz6eg25w 2025-04-13T16:28:00+09:00 https://youtu.be/3RjvGSz47pc

この度、私は山あいの楽園と噂される「足柄キャスティングエリア」へ、しれっと足を運んだ。
曰く、管理釣り場。曰く、クリアウォーター。曰く、爆釣。
まことか? と眉をひそめつつ到着した現地にて、私は早々に土下座したくなる思いを味わった。

なんとまあ、澄んだ水よ。
こちとら日頃、コーヒー牛乳を煮詰めたような池で悪戦苦闘しておる者である。
それがどうだ。透明度たるや、もはや神秘の泉。地元の池に住むアカミミガメやら鵜やらに見せたならば、やおら泣きだすのではないかというほど、清らかである。

「連日の雨の影響で、若干の濁りがありますが……」と現地スタッフは言っていた。
私はそっと心の中で独り言ちた。この水質で濁っているとは、いったいどこの次元の話か。

さて、魚影は濃い。否、濃すぎる。
そこかしこに魚、魚、また魚。もはやマス類天国。
マスの母数が多いというのはつまり、変わり者のマスがいる確率も高いということである。

そんな彼らに、私という変わり者が投げるルアーが出会ってしまうのだ。
まさに物好き同士の邂逅。運命のいたずら、いやこれは釣りの必然。

中層でのワインド、ボトムバイブの高速巻き、さらにはスピナー。
どれもこれも、ちょっと背徳の香り漂う外道的戦法(と思い込んでいる)であるが、魚はわりと寛容で、なんだかんだで釣れてくれる。
ありがたやありがたや。

そして、釣りの余韻に包まれながら、私はやらかした。
またしても、動画を作ってしまったのである。

いや、正確には「作らずにはいられなかった」と言うべきか。
前回のショート動画は、伏線というより、ただ単に我慢できなかった情熱の発露だった。
この趣味にはどうも、抑制という美徳が育ちにくいのである。

はてさて、今回の動画はどこまで再生されるだろうか。
日曜の夕暮れ、パソコンの前でキーボードを叩きつつ、私は思う。
「これが、業(ごう)か」と。


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Takuan
見える、という興奮について https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5orysffrat 2025-04-10T07:00:00+09:00 釣りという営みにおいて、「水中を想像せよ」「見えない世界に思いを馳せよ」と、よく言われる。確かに、魚の気配も地形の変化もすべてが視界の外。想像力と妄想力をフル回転させ、見えぬ敵に挑む、それこそが釣りの醍醐味である、と。
なるほどまったくその通り。

なのだが。

私はあえて声を大にして申し上げたい。
「見えるものが好きだ」

https://youtube.com/shorts/MVMcxIzp-k4?feature=share

もちろん、見えないことのロマンはよくわかっている。だがそのうえで、私はなおも、見える世界のあけすけな魅力に惹かれてやまないのである。

そう、私が愛してやまないのはトップウォーター。
魚が水面を割って襲いかかる、あの瞬間の、心臓が跳ねるような高揚感。
まさに「見える釣り」の象徴であり、エンターテインメントの極みである。

思えば私のトップウォーター愛は、少年期にあったあのブラックバスブームの只中で芽吹いた。
世代的にドンピシャであった私は、ズイールだ、ヘドンだと、アルバイトの賃金を惜しげもなくルアーに費やし、宝石のようなルアーを眺めては悦に浸っていたのである。
当時の私にとって、根掛かりしない釣りという点も、また非常に大切なポイントであった。

そんな過去を経て、今の私は、もはや魚が水面を割るその瞬間を待ち望む日々である。
あの一閃、あの炸裂音。見えない世界から突如として引きずり出される魚の姿は、実に痛快。これこそが、私が釣りをやめられぬ理由の一つなのだ。

ああ、こうして文字にしていたら、いてもたってもいられなくなってきた。
釣りに行きたい。

今週末はどこへ行こうか。川か、エリアか、それとも海か。
いずれにせよ私はまた、見える世界の悦楽に身を任せ、
水面の一閃を待つであろう。


しかし、得意なのはボトムの釣り。
これもまた業なのか。

 

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Takuan
飛ばさねばならぬ、という呪縛からの解放について https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5orbni3who 2025-04-09T07:19:00+09:00 釣りという業深き趣味には、実に様々な魅力が潜んでいる。魚を騙す知略の悦び。自然との対話。そしてその中でも、
私はとりわけ「遠投する」という行為に、ある種の陶酔を感じていた時期がある。
そう、かつての私は、ベイトタックルで100メートルという魔法の数字に取り憑かれていたのである。
それこそ、飛ばせるようになるまでは狂ったようにキャストを繰り返した。糸もルアーも相当に消耗した。もちろん財布も軽くなった。

https://youtu.be/XjlpHSiCnio

とりわけベイトタックルをこよなく愛し(下手の横好きとはまさにこのこと)、風を切って飛んでいくルアーに夢を見ていた。
100メートル飛ばすことが、まるで釣り人の名誉であり、使命であるかのように思えたのだ。

しかしながら、今となっては、そこまでのこだわりはすっかり薄れてしまった。
というのも、私が本当に気にかけるべきだったのは、数字ではなかったからだ。(負け惜しみという言葉がよぎる)

問題は「飛距離が100メートルに到達するか否か」ではなく、
「魚のいる場所に届くか否か」という、極めて実用的かつ情緒的な一点に尽きるのである。

https://youtu.be/R9rF2jzY6MU

私が好んで通っている砂浜では、ほんの少しウェーディングするだけで、60~70メートルも飛べば魚は射程圏内に入ってくる。
そうなれば、飛距離競争から降りて、余裕ある釣りを愉しむことができる。
「届いてるのだから、それで良いではないか」と。

私という人間は、どうにも「〜しなければならない」とか「〜でなければならない」といった呪詛の言葉が極めて苦手である。
まず「したい」という素朴な欲求があって、それを叶えるためにどうするか、という流れであってほしい。そうでなければ、窮屈でたまらない。

だからと言って、100メートル飛ばすこと(昨今は170メートルという数字も散見される)自体に喜びを見出す人々を否定する気はさらさら無い。むしろ、それもまた立派な“釣りの道”である。
私にとっては手段であり、結果であるに過ぎないというだけの話だ。

などと、たいそう格好の良いことをのたまっておきながら、
ついついベイトタックルのブレーキを緩め、気がつけばバックラ高切れでルアーを遥か彼方へ飛ばしてしまっているのも、これまた人間の業というものであろうか。
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Takuan
粗製乱造とはこのことか https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5ordu5nwdw 2025-04-08T07:14:00+09:00 業に抗えぬ私は、いくつかの動画を作ってしまった。

https://youtube.com/shorts/Igz0loU9mnM?feature=share

あれほど「釣りとは人の業である」とか「本能に支配されているのだ」などと偉そうに語っておきながら、
私はまんまとその業に乗せられて、ショート動画を生成してしまったのである。人間とはかくも弱きものか。

https://youtube.com/shorts/VQs_yyQYtMs?feature=share

撮影の舞台は足柄キャスティングエリア。清らかなる山の空気を吸い込みつつ、私は様々な方法で魚をだまし、釣り上げ、その全てをカメラに収めた。
空を切り裂き飛翔するルアー、警戒するニジマス、そして竿が曲がる一瞬のドラマ……それらすべてを私は切り取り、電脳空間に放流したのだ。

https://youtube.com/shorts/32eO2NkW118?feature=share

そしてやってくる、再生回数という名の評価。
これがまた、業を刺激することこの上ない。

数字が伸びれば嬉しくなるし、伸びなければ社会から見放されたような気分になる。なんと残酷で、なんと面白い仕組みであろうか。
もはや私は、「釣る」という行為を超えて、「観られる」という行為にすら囚われ始めているのかもしれない。業が深い。

https://youtube.com/shorts/MVMcxIzp-k4?feature=share

さて、この動画たちは一体どこまで羽ばたいてくれるのだろうか。
再生されるのか、埋もれるのか。
その行方は神のみぞ知る——いや、アルゴリズムのみぞ知る。

https://youtube.com/shorts/qi40hUOvQlg?feature=share

もしお時間が許すようなら、どうか一度ご視聴いただきたい。
もちろん、評価して頂けるのなら良い評価をされたいのが人情というものである。
私はもう、それすら隠さないことにした。

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Takuan
管理釣り場でふと思う https://www.fimosw.com/u/hachiko0723/fxte5or8t8x978 2025-04-07T10:00:00+09:00


釣りとは、暴力的で哲学的な娯楽である。

この愚かな私が朝も早よから竿を担いで海辺に向かうのは、別に早起きが好きだからでも、健康志向でも、ましてや魚を愛しているからでもない。
釣りたいからである。食べたいからである。



魚にとってはとんだ迷惑な話だが、こちらとしては至って真剣なのだ。
なんとしても魚を針にかけたい。欺きたい。引きずり出したい。できればドヤ顔したい。



そもそも釣りという行為は、いかにして魚をだますかという一点に尽きる。
その過程はいろいろあれど、結局のところ生き物を傷つける行為に他ならない。
生き物を傷つける為の道具は日進月歩で進化しており、30gの鉛の塊を100メートル以上の彼方へと投げ飛ばせる時代に到達した。
これはもはや趣味の名を借りた局地的兵器開発である。



だが、釣り人(少なくとも私は)はそんな事実に目を背けながら、あるいは自覚し、自問自答しながら、今日も水辺に立つ。
なぜか?
それはおそらく、この行為が人間の業そのものだからだ。

そう、釣りは業である。
深淵からにじみ出るような欲求。
「釣りたい」という名の煩悩が、理性の首を軽々とひねってしまう。

業とはつまり本能だ。
もはや抗う術もない。
そして、釣れた瞬間に生じる快楽たるや。
もはや正気を保つ事すら難しい。
平静を装ってはいるが、炸裂する歓喜を表す方法が見当たらないだけで、
その心の内は大変なお祭り騒ぎである。
それがあるから、私は今日もまた業竿を振るのである。

とはいえ、人間だからこそ気づいてしまう問題もある。
業を業のままに解き放ち続ければ、資源、つまり魚は枯渇する。
例えばメバル。愛らしい目と、ふっくらとした身。小気味良い引き。最高の釣り物の一つだ。
だが、彼らは成長が遅い上、場所に付く魚である事から、一度抜かれると二度と帰ってこない。(ような気がする)

「いつかまた会える」なんて思ってはいけない。
恋もメバルも、去ったら戻らないのが世の常である。

だから私は、リリースという文化を真面目に受け止め、節度ある釣行を重んじるようになった。
また、業の申し子とでも呼ぼうか。管理釣り場を利用する事も増えてきた。

あらかじめ放流された鱒類に手も足も出ないという情けなさを噛みしめながら、私は思う。

「人の業を満たすには、それなりの節度が必要なのだ」と。

すれっからしの魚たちに翻弄されながら、それでも私は釣り場へと足を運び続けるのだろう。
業と快楽とほんの少しの理性を背負って。

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Takuan