毎週末、せめて半日でも竿を振りたい。
人としての体裁など、もうどうでもよくなるくらい、なりふり構わず自分の世界に没頭したいのである。
そして、それが叶わない事もある。なぜか。しがらみである。
本来、あまり口にはしたくない言葉である。
口にすればするほど己が「大人」になってしまったようで悔しい。
しかしここではあえて言おう。どうしようもないしがらみが、わたしをどうしようもなく縛るのだ。
「行きたい。行く。」
この単純明快な行動原理に従って生きられる人は、まことに幸福である。
そういう人を見ると、羨ましくて脇腹を小突きたくなるほどだ。
しかし。かといって。私もこの生活をイヤイヤやっているわけではない。
自ら選んだ結果である。悔いはない。いや、ないはずだ。ないったらないのだ。
しかし、心というものは時として、勝手に溢れる。
わたしは根が素直なのだ。実に困った話である。
実は先週、大阪へ出張していた。
もちろん、スーツケースの底にはアジングタックルをひっそりと忍ばせていた。
もはやこれは遠征時の作法である。南港のあの雰囲気が、妙に肌に合うのだから通わない手はない。
しかし、時間がなかった。体力もなかった。
初日、朝から晩まで、商談・雑談・相談。談に次ぐ談。
体力ではなく、もはや精神の海で延々と泳ぎ続けるような感覚。
宿に着いた頃には、口だけが有酸素運動をしていたな、という感想しか出てこない有様である。
結局、夜の港に、はたまた街に繰り出すでもなく、眠ってしまった。
これはもう、釣り人としての敗北宣言である。
翌朝。再び打ち合わせ。
Web会議という文明の利器が、私の時間を寸分の隙なく食い尽くしていく。
移動、会議、移動、会議…気が付くと飛行機の時間が来て、すごすごと帰路につくほかなかった。
今回の出張で得た教訓は二つ。
一、釣り道具を持っていれば釣りができると思うなかれ。
一、体力とコミュ力は、釣行より先に鍛えるべし。
とはいえ、今週末は釣りに行きたい。いや、行く。
さて、今夜もこっそりタックルを磨いておくとしよう。
なのだが。
私はあえて声を大にして申し上げたい。
「見えるものが好きだ」
https://youtube.com/shorts/MVMcxIzp-k4?feature=share
もちろん、見えないことのロマンはよくわかっている。だがそのうえで、私はなおも、見える世界のあけすけな魅力に惹かれてやまないのである。
そう、私が愛してやまないのはトップウォーター。
魚が水面を割って襲いかかる、あの瞬間の、心臓が跳ねるような高揚感。
まさに「見える釣り」の象徴であり、エンターテインメントの極みである。
思えば私のトップウォーター愛は、少年期にあったあのブラックバスブームの只中で芽吹いた。
世代的にドンピシャであった私は、ズイールだ、ヘドンだと、アルバイトの賃金を惜しげもなくルアーに費やし、宝石のようなルアーを眺めては悦に浸っていたのである。
当時の私にとって、根掛かりしない釣りという点も、また非常に大切なポイントであった。
そんな過去を経て、今の私は、もはや魚が水面を割るその瞬間を待ち望む日々である。
あの一閃、あの炸裂音。見えない世界から突如として引きずり出される魚の姿は、実に痛快。これこそが、私が釣りをやめられぬ理由の一つなのだ。
ああ、こうして文字にしていたら、いてもたってもいられなくなってきた。
釣りに行きたい。
今週末はどこへ行こうか。川か、エリアか、それとも海か。
いずれにせよ私はまた、見える世界の悦楽に身を任せ、
水面の一閃を待つであろう。
しかし、得意なのはボトムの釣り。
これもまた業なのか。