プロフィール
Takuan
千葉県
プロフィール詳細
カレンダー
検索
タグ
アクセスカウンター
- 今日のアクセス:2
- 昨日のアクセス:10
- 総アクセス数:28367
QRコード
▼ 飛ばさねばならぬ、という呪縛からの解放について
釣りという業深き趣味には、実に様々な魅力が潜んでいる。魚を騙す知略の悦び。自然との対話。そしてその中でも、
私はとりわけ「遠投する」という行為に、ある種の陶酔を感じていた時期がある。
そう、かつての私は、ベイトタックルで100メートルという魔法の数字に取り憑かれていたのである。
それこそ、飛ばせるようになるまでは狂ったようにキャストを繰り返した。糸もルアーも相当に消耗した。もちろん財布も軽くなった。
とりわけベイトタックルをこよなく愛し(下手の横好きとはまさにこのこと)、風を切って飛んでいくルアーに夢を見ていた。
100メートル飛ばすことが、まるで釣り人の名誉であり、使命であるかのように思えたのだ。
しかしながら、今となっては、そこまでのこだわりはすっかり薄れてしまった。
というのも、私が本当に気にかけるべきだったのは、数字ではなかったからだ。(負け惜しみという言葉がよぎる)
問題は「飛距離が100メートルに到達するか否か」ではなく、
「魚のいる場所に届くか否か」という、極めて実用的かつ情緒的な一点に尽きるのである。
私が好んで通っている砂浜では、ほんの少しウェーディングするだけで、60~70メートルも飛べば魚は射程圏内に入ってくる。
そうなれば、飛距離競争から降りて、余裕ある釣りを愉しむことができる。
「届いてるのだから、それで良いではないか」と。
私という人間は、どうにも「〜しなければならない」とか「〜でなければならない」といった呪詛の言葉が極めて苦手である。
まず「したい」という素朴な欲求があって、それを叶えるためにどうするか、という流れであってほしい。そうでなければ、窮屈でたまらない。
だからと言って、100メートル飛ばすこと(昨今は170メートルという数字も散見される)自体に喜びを見出す人々を否定する気はさらさら無い。むしろ、それもまた立派な“釣りの道”である。
私にとっては手段であり、結果であるに過ぎないというだけの話だ。
などと、たいそう格好の良いことをのたまっておきながら、
ついついベイトタックルのブレーキを緩め、気がつけばバックラ高切れでルアーを遥か彼方へ飛ばしてしまっているのも、これまた人間の業というものであろうか。
- 4月9日 07:19
- コメント(0)
コメントを見る
Takuanさんのあわせて読みたい関連釣りログ
fimoニュース
登録ライター
- ジャッカル:チャビーポッパー
- 3 日前
- ichi-goさん
- 『黒潮大蛇行が終息の兆し?』
- 6 日前
- hikaruさん
- たけのこのこのこ2025 #6
- 11 日前
- はしおさん
- チョットした工夫で使い良いルア…
- 11 日前
- papakidさん
- 記憶に残る1本
- 15 日前
- 濵田就也さん
本日のGoodGame
シーバス
-
- 春の一応バチ探訪
- 西国のKJ
-
- 月日の流れに早さを感じた久々のサーフ…
- Mitto
最新のコメント