飛ばさねばならぬ、という呪縛からの解放について


釣りという業深き趣味には、実に様々な魅力が潜んでいる。魚を騙す知略の悦び。自然との対話。そしてその中でも、
私はとりわけ「遠投する」という行為に、ある種の陶酔を感じていた時期がある。
そう、かつての私は、ベイトタックルで100メートルという魔法の数字に取り憑かれていたのである。
それこそ、飛ばせるようになるまでは狂ったようにキャストを繰り返した。糸もルアーも相当に消耗した。もちろん財布も軽くなった。



とりわけベイトタックルをこよなく愛し(下手の横好きとはまさにこのこと)、風を切って飛んでいくルアーに夢を見ていた。
100メートル飛ばすことが、まるで釣り人の名誉であり、使命であるかのように思えたのだ。

しかしながら、今となっては、そこまでのこだわりはすっかり薄れてしまった。
というのも、私が本当に気にかけるべきだったのは、数字ではなかったからだ。(負け惜しみという言葉がよぎる)

問題は「飛距離が100メートルに到達するか否か」ではなく、
「魚のいる場所に届くか否か」という、極めて実用的かつ情緒的な一点に尽きるのである。



私が好んで通っている砂浜では、ほんの少しウェーディングするだけで、60~70メートルも飛べば魚は射程圏内に入ってくる。
そうなれば、飛距離競争から降りて、余裕ある釣りを愉しむことができる。
「届いてるのだから、それで良いではないか」と。

私という人間は、どうにも「〜しなければならない」とか「〜でなければならない」といった呪詛の言葉が極めて苦手である。
まず「したい」という素朴な欲求があって、それを叶えるためにどうするか、という流れであってほしい。そうでなければ、窮屈でたまらない。

だからと言って、100メートル飛ばすこと(昨今は170メートルという数字も散見される)自体に喜びを見出す人々を否定する気はさらさら無い。むしろ、それもまた立派な“釣りの道”である。
私にとっては手段であり、結果であるに過ぎないというだけの話だ。

などと、たいそう格好の良いことをのたまっておきながら、
ついついベイトタックルのブレーキを緩め、気がつけばバックラ高切れでルアーを遥か彼方へ飛ばしてしまっているのも、これまた人間の業というものであろうか。
 

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