地球のご機嫌と釣り人の業

釣りの上手い人というのは、たいてい地球の機嫌を読むのが上手い。
9ibw9j89o5p75bt8n4gp_480_480-cea004d5.jpg

魚にとっても釣り人にとっても都合がよく、双方が「おっ、今日は悪くないな」と思えるような絶妙なタイミングを見計らって、
スマートにポイントへ入り込み、涼しい顔で釣果をあげてくる。
その様子たるや、もはやアングラーの皮をかぶった漁師である。いっそ漁師の魂が釣竿に宿ったといっても過言ではない。

そこへいくと、私はまったくもって下手くそである。
自然にはそっぽを向かれ、時には癇癪を起こされ、尻尾を巻いて撤退するのが常だ。

とくに若かりし頃など、それはもうひどいものだった。
「釣りたい!」という己の一念のみを頼りに浜へと出向けば、待ち受けていたのはうねり・暴風・小雨・大雨・雷・毒魚の刺突である。
ここに挙げた災厄のどれを取っても、ひとつ間違えば割と真剣に命を落としていた可能性がある。

私は釣りをするときは徹底して一人になりたいタチである。
だから当然、誰も来ないような人気のない場所へ向かう。
そして当然、そこで何かが起きたとしても、誰にも気づかれない。
誰にも、だ。

自然災害×孤独という組み合わせは、なかなかにハードである。
こうなるともう、人間の力では抗えない。
抗えぬのであれば、本来、近寄らないというのが唯一の防衛策である。
君子危うきに近寄らずというやつだ。

ところが、人間というものは、ときおり文明を忘れ、近寄らずに済む脅威へと自ら近寄る事がある。
特に釣り人というものは、文明より先に業(ごう)が前に出てしまう。
「釣り場へ行かねば!釣りたいのだ!今すぐに!」
という、原始人じみた情熱に火がついてしまえば、もはや知性など残っていない。

そんなことを、低気圧真っ只中の浜で、無限に釣れる海藻をより分け、美味い種類なら儲けものともぐもぐ噛みしめながら、ふと考えた。
そして一時間も経たぬうちに竿をたたみ、そそくさと浜を後にした自分を、私は心の底から褒めた。
「よくやった。今日のお前は偉い。よくぞ粘らずすぐに立ち去った」と。

なお、そもそも釣りをしない事が正解なのだが、残念ながらそこまでの境地には至っていない。

自然に翻弄され、苦笑いを浮かべながら帰るのもまた、
釣りのだいご味なのである。

コメントを見る