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▼ 先月の釣り・・・その2 屏風ポイント
お晩でございます~
ATX840でございます。
さて、本日は本業のロックの釣りログ。
と、言いたいところなのだが・・・
ちょっと前のログで、通い慣れた釣り場が埋め立てで無くなってしまう、ということを書いたが、その辺のことをもう少し語ってみようと思う。
苫小牧の港は北日本最大の港湾で、国内貨物の取り扱い量は日本一だ。
元々は石狩・夕張炭田からの石炭輸送がメインだったのだが、時代の変遷で、今は自動車や紙、石油など多様化しており、最近では北極海航路の中継点としても注目されている。
ここで、通い慣れた釣り場というのが、通称、木材埠頭(中央北ふ頭)という場所である。
ここは、輸入木材を一定時間海水に漬けておいて、害虫などを駆除する目的で作られたものだ。
なので、西港の東西に延びた岸壁から、少し北側に掘りこんである。その掘り込みの入り口にはドルフィンが設置され(まだ残っている)、直接海上に輸入木材を下ろして、掘り込みに流し入れておけるようにしてある。
掘り込みに入れた木材が潮流で流出しないように、杭が屏風状に打ち込んである。
これに、クロソイが着いていて、いい釣りができた(現在は撤去された)。
なので、僕はここを「屏風ポイント」と呼んでいた。
屏風があったと思われる箇所で釣れたクロソイ。
ところが、現在は陸上で薬品を使って燻蒸するので、このような広大な設備は必要なくなった。
そして、現在は岸壁が不足しており、物流の停滞が懸念されている。そこで、白羽の矢が立ったのが木材埠頭だ。
ここを埋め立てることで、大きな岸壁と背後地が生まれる。これは国(国土交通省)の事業で、苫小牧港では十数年ぶりになるのだが、国際港苫小牧の重要性が示されている、ということだろう。
時代だなぁ、と思いながら、ちょっと苫小牧港の歴史について調べてみた。
そもそも苫小牧の前浜は、すべて砂浜で港があったわけではない。
そのはじまりは、大正7年に勇払川の河口に私財を投げうって作られた小さな港である。
その後、港を作る機運は高まって、試験的に堤防が作られたのだが、元々は砂浜、漂砂がすぐに港を埋めてしまう。それを解決できないまま、堤防は忘れ去られてしまった。
現在の苫小牧港西港区 港内から西を見る
戦後になって、勇払原野の大規模開発の機運が高まり(その後の苫小牧東部工業地帯)、工業港の必要性が説かれた。
これが昭和26年に正式に国家プロジェクトとなり、苫小牧港の築港が始まった。
前段で述べたように、苫小牧の前浜はすべて砂浜だ。港を掘っても漂砂のせいで1年もたたない間に埋まってしまう。
これを解決するためには、かなり大規模な堤防を作り、港自体は陸地を掘りこんで作る、ということを当時の土木の専門家(偉い先生)が考えた。
壮大な構想だ。
漂砂については、アイソトープ(放射性物質)を使って、その動きを解析、航路が埋まらない方策を検証したという。
これが昭和29年のことで、実際の掘り込み作業は昭和35年に始まっている。
前職の大先輩で、この当時に北海道に駐在されていた方がいる。この方の話では、苫小牧港で小松製作所の水中ブルドーザー(D155Wの原型?)のテストが盛んに行われていたそうだ。
ただ、Wikiによれば、開発は昭和43年に始まったとあり、第1船の入港と年代がずれている。入港のあとに、どこか別の浚渫現場でテストしていたのかもしれない。
いずれにしても、興味深い話だ。
昭和40年には第1船が入港、苫小牧港の歴史が始まる。
僕はこの2年前に生まれているので、苫小牧港と同年代だ(笑)。
久々にスイミングで釣れたクロソイ。
木材埠頭に初めて行ったのが、小学5年生の頃だ。当然、一人ではなく父親と一緒だったのだが、海釣りを教えてもらったばかりだったので、よく覚えている。
僕と父親は釣れなかったのだが、一緒に行った人がアブラコを釣っていた記憶がある。
その後、再びこの場所に通うようになるまで、25年近くの年月が経過する・・・
そんな、思い出の釣り場で、良く釣れるポイントだったので、残念に思う気持ちもある。
ただ、苫小牧に住む僕としては、その産業のメインとなる港の発展も願っており、ちょっと複雑だ。
埋め立てはかなり進んでおり、今後はドルフィンなど係留設備を撤去して岸壁を造成していくのだろう。
冬が本格的になる前に、また通ってみようかな・・・
屏風ポイントに。
ATX840でございます。
さて、本日は本業のロックの釣りログ。
と、言いたいところなのだが・・・
ちょっと前のログで、通い慣れた釣り場が埋め立てで無くなってしまう、ということを書いたが、その辺のことをもう少し語ってみようと思う。
苫小牧の港は北日本最大の港湾で、国内貨物の取り扱い量は日本一だ。
元々は石狩・夕張炭田からの石炭輸送がメインだったのだが、時代の変遷で、今は自動車や紙、石油など多様化しており、最近では北極海航路の中継点としても注目されている。
ここで、通い慣れた釣り場というのが、通称、木材埠頭(中央北ふ頭)という場所である。
ここは、輸入木材を一定時間海水に漬けておいて、害虫などを駆除する目的で作られたものだ。
なので、西港の東西に延びた岸壁から、少し北側に掘りこんである。その掘り込みの入り口にはドルフィンが設置され(まだ残っている)、直接海上に輸入木材を下ろして、掘り込みに流し入れておけるようにしてある。
掘り込みに入れた木材が潮流で流出しないように、杭が屏風状に打ち込んである。
これに、クロソイが着いていて、いい釣りができた(現在は撤去された)。
なので、僕はここを「屏風ポイント」と呼んでいた。
屏風があったと思われる箇所で釣れたクロソイ。
ところが、現在は陸上で薬品を使って燻蒸するので、このような広大な設備は必要なくなった。
そして、現在は岸壁が不足しており、物流の停滞が懸念されている。そこで、白羽の矢が立ったのが木材埠頭だ。
ここを埋め立てることで、大きな岸壁と背後地が生まれる。これは国(国土交通省)の事業で、苫小牧港では十数年ぶりになるのだが、国際港苫小牧の重要性が示されている、ということだろう。
時代だなぁ、と思いながら、ちょっと苫小牧港の歴史について調べてみた。
そもそも苫小牧の前浜は、すべて砂浜で港があったわけではない。
そのはじまりは、大正7年に勇払川の河口に私財を投げうって作られた小さな港である。
その後、港を作る機運は高まって、試験的に堤防が作られたのだが、元々は砂浜、漂砂がすぐに港を埋めてしまう。それを解決できないまま、堤防は忘れ去られてしまった。
現在の苫小牧港西港区 港内から西を見る
戦後になって、勇払原野の大規模開発の機運が高まり(その後の苫小牧東部工業地帯)、工業港の必要性が説かれた。
これが昭和26年に正式に国家プロジェクトとなり、苫小牧港の築港が始まった。
前段で述べたように、苫小牧の前浜はすべて砂浜だ。港を掘っても漂砂のせいで1年もたたない間に埋まってしまう。
これを解決するためには、かなり大規模な堤防を作り、港自体は陸地を掘りこんで作る、ということを当時の土木の専門家(偉い先生)が考えた。
壮大な構想だ。
漂砂については、アイソトープ(放射性物質)を使って、その動きを解析、航路が埋まらない方策を検証したという。
これが昭和29年のことで、実際の掘り込み作業は昭和35年に始まっている。
前職の大先輩で、この当時に北海道に駐在されていた方がいる。この方の話では、苫小牧港で小松製作所の水中ブルドーザー(D155Wの原型?)のテストが盛んに行われていたそうだ。
ただ、Wikiによれば、開発は昭和43年に始まったとあり、第1船の入港と年代がずれている。入港のあとに、どこか別の浚渫現場でテストしていたのかもしれない。
いずれにしても、興味深い話だ。
昭和40年には第1船が入港、苫小牧港の歴史が始まる。
僕はこの2年前に生まれているので、苫小牧港と同年代だ(笑)。
久々にスイミングで釣れたクロソイ。
木材埠頭に初めて行ったのが、小学5年生の頃だ。当然、一人ではなく父親と一緒だったのだが、海釣りを教えてもらったばかりだったので、よく覚えている。
僕と父親は釣れなかったのだが、一緒に行った人がアブラコを釣っていた記憶がある。
その後、再びこの場所に通うようになるまで、25年近くの年月が経過する・・・
そんな、思い出の釣り場で、良く釣れるポイントだったので、残念に思う気持ちもある。
ただ、苫小牧に住む僕としては、その産業のメインとなる港の発展も願っており、ちょっと複雑だ。
埋め立てはかなり進んでおり、今後はドルフィンなど係留設備を撤去して岸壁を造成していくのだろう。
冬が本格的になる前に、また通ってみようかな・・・
屏風ポイントに。
- 2019年12月5日
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