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▼ 陸前高田市を後にして(その1
- ジャンル:日記/一般
- (たわごと)
一週間の活動を経て、7月10日に陸前高田より帰宅しました。
今回はその報告その1です。
出発前は、「1週間家を空ける事で、家族・友人・職場などの人達が負担する大変さと不安を足した分より、少しでも役に立てるように」と意気込んでいましたが・・・
結論として
「東北に行った私よりも、自宅で仕事をしながら家事と娘の面倒をみた妻の方が、よっぽど大変でした」と感じます。
現地で私ができた事の総量と、私が東北に行くための交通費や周りの人への負担などなどを比べると・・・
人、ひとりが出来る事なんてたかが知れています。しかし、出来た事が少ないからこそ、帰ってきてから何をするのか?という気持ちもあります。
一週間そこらで、分かったような事を書いたり、被災地の画像などをアップする事には多くの反対意見もあるとは思います。
しかし、4ヶ月が過ぎ、震災の事を考える事、目にする機会がどんどん減ってきていることも事実と感じます。
時間と共に人々の関心が薄れて行くのは仕方ない事ですし、ある意味必要なことかもしれません。
しかし、現地にはまだまだ支援の手が必要な所が沢山あります。継続した支援が続いて行くよう願いながら、色々な場所で、話し、書き、伝えていくつもりです。
そういう気持ちで、携帯のシャッターを切りました。
さて本題です
まず地域の状況から
津波が来ていない場所では、一見被害がなかったのではないかと思ってしまう光景が広がっていました。
津波被害がある場所から、2~3km上流に行くと、アユ釣りをしている人が沢山います。
帰宅中のバスの中より気仙川を望む

そして、津波による瓦礫の撤去は場所によって差がある状態。
市街地内は、多くの重機にあふれ、多くの瓦礫は数ヶ所に集められ、各々巨大な瓦礫の山を形成していました。


市街地から少し離れると、瓦礫がそのままで片付けられていない状態の所も多いです。
重機の数も少なく、ボランティアの人達の手で少しづつ片付けているような場所も多くあります。


河口付近は、生臭い匂いが立ち込めており、少しでも早く瓦礫の撤去が必要だと感じます。

市内数ヶ所で、スーパーや病院やコンビニが、プレハブで営業を開始しており、ガソリンスタンドも2ヶ所で営業を開始していました。
まだ十分とは言えないものの、必要最低限の生活用品は現地で何とか調達が可能な状況となっています(ハエが沢山発生しているのだが、殺虫剤は圧倒的に足りない様子)。
コンビニ

診療所や歯医者、文房具店、スーパーの臨時販売所

陸前高田で出会った人達は、
道ですれ違う度に「ありがとうございます」、「暑いので無理しないで下さいね」と声をかけてくれます
(少しの無理はさせて下さいと感じるくらい、こちらの心配をしてくれます)
私の所属した災害対策本部は中学校の一室を借りていたのですが、その中学生も「こんにちは」と大きな声で、こちらの目をみて、あいさつをしてくれます。
また、宿泊した温泉宿(ボランティア基地と化していました)には、現地の方々も入浴に来ていました。
仮設住宅、避難所だけでなく、お風呂の中でも、地域の方々と沢山の話しをすることが出来ました。
色々な楽しい話も沢山しました。
津波の時の話も沢山聞きました。
「ビルの中で首まで水が来て、天井の排管につかまり凌いだ」
「避難所で1ヶ月経った頃に、妻の無事を知った」
「山の斜面で、とにかく子供たちを上に押し上げた、それから大人が上がって行ったが、何人かは流された」
「孫がまだ見つかっていない、子どもが遊んでいるのを見ると、つい探してしまう」
「最初はおにぎり一つを何人かで分け合ってしのいだ、私たち年寄りは良いけど、子どもは育ち盛りだから・・・」
などなど。
ただ聞くことしかできませんでした・・・
宿の部屋から
イモリを取っている子供たちです。宿から100mも下ると、津波の跡が広がり始めます。

この子たちの未来が明るくありますように・・・
宿には鹿も出ました(驚)

宿で近所の子供達と短冊に願い事を(7月7日夜)

その他にも、全国各地から集まってきていた、警察官や自衛隊、瓦礫撤去に来た人たちなど、様々な人たちとも、「お疲れ様です」と声を掛け合いながら活動を行ってきました。
朝に宿を出発するときにも、名前も知らないボランティアの人が「行ってらっしゃい」と声を掛けてくれます
期間中は常に動きまわり、何をするにも時間が足りないと感じながら一週間が過ぎました。短い期間ではありましたが、色々考える事が出来たように思います。
長くなったので今日はこの辺りで中断です。
後日もう少し報告したいと思います。
最後に、
私の5歳になったばかりの娘が、不在中に1人で手紙を書いてくれていました。その全文です。
「おとうさん いますごくあいたいの おとうさん いまなみだがでたの だから おとうさん すごくだいすきなのよ」・・・泣いた(笑)
今回はその報告その1です。
出発前は、「1週間家を空ける事で、家族・友人・職場などの人達が負担する大変さと不安を足した分より、少しでも役に立てるように」と意気込んでいましたが・・・
結論として
「東北に行った私よりも、自宅で仕事をしながら家事と娘の面倒をみた妻の方が、よっぽど大変でした」と感じます。
現地で私ができた事の総量と、私が東北に行くための交通費や周りの人への負担などなどを比べると・・・
人、ひとりが出来る事なんてたかが知れています。しかし、出来た事が少ないからこそ、帰ってきてから何をするのか?という気持ちもあります。
一週間そこらで、分かったような事を書いたり、被災地の画像などをアップする事には多くの反対意見もあるとは思います。
しかし、4ヶ月が過ぎ、震災の事を考える事、目にする機会がどんどん減ってきていることも事実と感じます。
時間と共に人々の関心が薄れて行くのは仕方ない事ですし、ある意味必要なことかもしれません。
しかし、現地にはまだまだ支援の手が必要な所が沢山あります。継続した支援が続いて行くよう願いながら、色々な場所で、話し、書き、伝えていくつもりです。
そういう気持ちで、携帯のシャッターを切りました。
さて本題です
まず地域の状況から
津波が来ていない場所では、一見被害がなかったのではないかと思ってしまう光景が広がっていました。
津波被害がある場所から、2~3km上流に行くと、アユ釣りをしている人が沢山います。
帰宅中のバスの中より気仙川を望む

そして、津波による瓦礫の撤去は場所によって差がある状態。
市街地内は、多くの重機にあふれ、多くの瓦礫は数ヶ所に集められ、各々巨大な瓦礫の山を形成していました。


市街地から少し離れると、瓦礫がそのままで片付けられていない状態の所も多いです。
重機の数も少なく、ボランティアの人達の手で少しづつ片付けているような場所も多くあります。


河口付近は、生臭い匂いが立ち込めており、少しでも早く瓦礫の撤去が必要だと感じます。

市内数ヶ所で、スーパーや病院やコンビニが、プレハブで営業を開始しており、ガソリンスタンドも2ヶ所で営業を開始していました。
まだ十分とは言えないものの、必要最低限の生活用品は現地で何とか調達が可能な状況となっています(ハエが沢山発生しているのだが、殺虫剤は圧倒的に足りない様子)。
コンビニ

診療所や歯医者、文房具店、スーパーの臨時販売所

陸前高田で出会った人達は、
道ですれ違う度に「ありがとうございます」、「暑いので無理しないで下さいね」と声をかけてくれます
(少しの無理はさせて下さいと感じるくらい、こちらの心配をしてくれます)
私の所属した災害対策本部は中学校の一室を借りていたのですが、その中学生も「こんにちは」と大きな声で、こちらの目をみて、あいさつをしてくれます。
また、宿泊した温泉宿(ボランティア基地と化していました)には、現地の方々も入浴に来ていました。
仮設住宅、避難所だけでなく、お風呂の中でも、地域の方々と沢山の話しをすることが出来ました。
色々な楽しい話も沢山しました。
津波の時の話も沢山聞きました。
「ビルの中で首まで水が来て、天井の排管につかまり凌いだ」
「避難所で1ヶ月経った頃に、妻の無事を知った」
「山の斜面で、とにかく子供たちを上に押し上げた、それから大人が上がって行ったが、何人かは流された」
「孫がまだ見つかっていない、子どもが遊んでいるのを見ると、つい探してしまう」
「最初はおにぎり一つを何人かで分け合ってしのいだ、私たち年寄りは良いけど、子どもは育ち盛りだから・・・」
などなど。
ただ聞くことしかできませんでした・・・
宿の部屋から
イモリを取っている子供たちです。宿から100mも下ると、津波の跡が広がり始めます。

この子たちの未来が明るくありますように・・・
宿には鹿も出ました(驚)

宿で近所の子供達と短冊に願い事を(7月7日夜)

その他にも、全国各地から集まってきていた、警察官や自衛隊、瓦礫撤去に来た人たちなど、様々な人たちとも、「お疲れ様です」と声を掛け合いながら活動を行ってきました。
朝に宿を出発するときにも、名前も知らないボランティアの人が「行ってらっしゃい」と声を掛けてくれます
期間中は常に動きまわり、何をするにも時間が足りないと感じながら一週間が過ぎました。短い期間ではありましたが、色々考える事が出来たように思います。
長くなったので今日はこの辺りで中断です。
後日もう少し報告したいと思います。
最後に、
私の5歳になったばかりの娘が、不在中に1人で手紙を書いてくれていました。その全文です。
「おとうさん いますごくあいたいの おとうさん いまなみだがでたの だから おとうさん すごくだいすきなのよ」・・・泣いた(笑)
- 2011年7月13日
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