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▼ 旅人も二種類
- ジャンル:日記/一般
愛郷心とは、生まれ育った地域に対し愛着ないし忠誠を抱く思想、心情である。
愛国心とは、自分の国家に対し抱く愛着や忠誠である。
こう書くと、大した違いを感じないかもしれないけど、実は結構大きな意味の差を感じる。
戦後(GHQ)の教育で学び育った私たちは、愛国心というものにはある意味でアレルギーを抱いている。
日本が歩んだ昭和初期から始まる戦乱への大義に、当時の国家が手段として愛国心を用いた事実(これも本当なのかは解らないが)があり、戦後教育ではそこに悪というレッテルを張られ、「今後日本が戦乱を招かないために、愛国心は持ってはならない」という教育方針のもとに今まで生きてきた。
これが昭和に教育を受けてきた人の大前提として、以下に続いてほしい。
さて、実際に日本各地、そしてたまに海外での釣りをしてきて思うのだが、日本という国の釣りの文化は、かなりの奥深さを持っていると感じている。
本当はこんな所へ記すほど浅はかなものではないし、政治の色を抜いての文章にはかなり無理もある話(国家と政治は切っても切り離せないのでね)なのではあるが・・・
近代の釣りの象徴であるルアー、そしてシーバス釣り一つにおいても、実は土着の技法や考え方が様々にあり、方々を旅してその土地の釣師から聞く話にはいつも新しい発見というか「なるほどねぇ」と思わせてくれるネタが豊富に練り込まれているものである。
でも、実はこれ、国という一つの枠で見ると、見落としてしまう僅かな事実なのだ。
県という枠すらも、邪魔になる。
では国とは・・・
ナショナリズムという言葉は、そもそも世界はいくつもの統治国家によって分断されていることが前提の言葉になっているが、個人的にはこの考え方は好きではない。
良いか悪いかわからないけど、あえて線を引くならば、宗教による文化圏の違いこそが、ナショナリズムの原点(境界線)である。
我が国においてはどうか・・・を考えると、実は自分が派閥に属す宗教観を持たないので文章に起こすのは難しいのだけど・・・一つはっきりしていることは、日本も山一つを挟み、明らかに文化、生活が異なるものをたくさん見てきた。
また、島の固有文化はかなりはっきりと目に見る事が出来た。
文化は人。
そして、そこに住む釣り人の思想も変えていく。
ん?変えていくではなくて、生み出すという事かもしれないが。
そんなことを想いながらここ数十年の旅をして思ったのは、郷土愛というものは実は自分が生活してきた場所のみに生まれる感情ではないのだという事だった。
むしろ、その時々の自分の置かれる状況によって、「ここで生きてみたい」とおもう地域へこそ愛郷心のようなものが芽生える事が多々あった。
それは愛郷心ではなく、実は憧れだったりもするかもしれないが、定義での「愛着ないし忠誠心」を重んじるなら、じつは地元の川よりも愛した川は日本各地に散らばっている。
土着の民と旅人の違いかもしれないけど。
最近、世界へ出る釣り人が多いと聞く。
実際に私の周りにもそういう友人も多い。
帰ってきてからの土産話も楽しい。
ただ、そういった友人たちの話を聞いて残念でならないのが、自分の住む地域の文化すら理解せずに、海外へ飛び込んでいき「世界を知った」様なつもりになっていることだ。
特に、先祖がその風土で生きていく為に要した思想も理解しようとせずに他国(地域)の空気に触れて刺激を受け、それが洗礼を受けたかの如く悟ってしまうのを見ると「それで良いのかい?」と思ってしまう。
あの国はすごい
あっちの国もすごい
じゃぁ、日本は何がすごい?と聞くと、そういう輩に限って「日本はアレが悪い、これが悪い・・・」と答える。
ありゃ、単純に自分の現状への絶望から、海外へ逃げただけかい。
ならいっそ、その国に生まれ住み、そこで商いしてみろ。
まるでシイラもやったことがないのにマグロに挑んで、オフショアの何たるかを語る釣り人のように見えてしまう。
私自身も、僅かだけどキリスト教圏と仏教圏、そしてヒンドゥー教圏にて釣りもしてきた。
素晴らしい景色、文化、魚との出合いもあった。
その中で一番印象に残っているのは、バリ島から船で渡った小さな離島の、そこで行われていた山に来ていた海の神様を、もう一度海へ帰す為に祭りの風景だ。
あまり観光客は参加させてもらえないのだけど、なぜか参列に並んで一緒に小さな寺院へたどり着き、豊かな生活(安全と豊漁)への感謝を神へささげる儀式を行ったときに、頭に浮かんだのは伊豆の八幡港で見た際だった。
あれは、日本各地で行われているお盆の行事、御霊を迎え返すのと本当に酷似していて、ひょっとして海洋民族というのは、宗教のルーツを超越しているんじゃないかとさえ想いを張り巡らせた。
見たこともない魚を釣る。
それは楽しい事に間違いはない。
遠くへ行く。
旅人としての本能であるから、否定はしない。
だけど、もう少し、足元にも目を向けた後に、遠くの文化へ触れてみてはどうだろうか。
もちろん、人と比べての「俺の方が凄い秘境へ行ったんだ」とか、「秘境・怪魚を語ったマニュアル商売」という輩には用のない話ではあるのだが、もしも純粋に釣り人として異文化に触れていみたいと言うのならば、日本は半島や分水嶺を一つ挟んだだけで、釣りも変わり文化も違ったりするものである。
イワナなんかは、DNAが違ったりもする。
そこで何に気が付くか。
繊細な、何か。
それが旅人としての慣性であり、楽しみ方の奥深さでもあると思うのだ。
ぜひ、今海外の釣りに目を向けているアングラーには、その前に日本という国土の釣りをきちんと見てから旅立ってほしい。
郷土愛も持てなけりゃ、愛国心も減ったくれもない。
海外や地方へ行って、「お前の国(街)には、どんな釣りがあるんだい?」と言われた時に、胸を張ってこたえられるかね?
あ、そうそう。
ある意味でやり切った友人が、南の島でカジキ漁師をやっているのだが、去年関東へ帰ってきたときに食事をした。
んで、その時に「タピオスのフローティングで、南の島でなんか釣ってみて」なんて言う話をした。
後日画像が送られてきた。

キハダマグロだそうだ。
カジキの餌にするのだとか(笑)
何がウケるって、元記者のくせに、写真に日付入れる事か(爆)
愛国心とは、自分の国家に対し抱く愛着や忠誠である。
こう書くと、大した違いを感じないかもしれないけど、実は結構大きな意味の差を感じる。
戦後(GHQ)の教育で学び育った私たちは、愛国心というものにはある意味でアレルギーを抱いている。
日本が歩んだ昭和初期から始まる戦乱への大義に、当時の国家が手段として愛国心を用いた事実(これも本当なのかは解らないが)があり、戦後教育ではそこに悪というレッテルを張られ、「今後日本が戦乱を招かないために、愛国心は持ってはならない」という教育方針のもとに今まで生きてきた。
これが昭和に教育を受けてきた人の大前提として、以下に続いてほしい。
さて、実際に日本各地、そしてたまに海外での釣りをしてきて思うのだが、日本という国の釣りの文化は、かなりの奥深さを持っていると感じている。
本当はこんな所へ記すほど浅はかなものではないし、政治の色を抜いての文章にはかなり無理もある話(国家と政治は切っても切り離せないのでね)なのではあるが・・・
近代の釣りの象徴であるルアー、そしてシーバス釣り一つにおいても、実は土着の技法や考え方が様々にあり、方々を旅してその土地の釣師から聞く話にはいつも新しい発見というか「なるほどねぇ」と思わせてくれるネタが豊富に練り込まれているものである。
でも、実はこれ、国という一つの枠で見ると、見落としてしまう僅かな事実なのだ。
県という枠すらも、邪魔になる。
では国とは・・・
ナショナリズムという言葉は、そもそも世界はいくつもの統治国家によって分断されていることが前提の言葉になっているが、個人的にはこの考え方は好きではない。
良いか悪いかわからないけど、あえて線を引くならば、宗教による文化圏の違いこそが、ナショナリズムの原点(境界線)である。
我が国においてはどうか・・・を考えると、実は自分が派閥に属す宗教観を持たないので文章に起こすのは難しいのだけど・・・一つはっきりしていることは、日本も山一つを挟み、明らかに文化、生活が異なるものをたくさん見てきた。
また、島の固有文化はかなりはっきりと目に見る事が出来た。
文化は人。
そして、そこに住む釣り人の思想も変えていく。
ん?変えていくではなくて、生み出すという事かもしれないが。
そんなことを想いながらここ数十年の旅をして思ったのは、郷土愛というものは実は自分が生活してきた場所のみに生まれる感情ではないのだという事だった。
むしろ、その時々の自分の置かれる状況によって、「ここで生きてみたい」とおもう地域へこそ愛郷心のようなものが芽生える事が多々あった。
それは愛郷心ではなく、実は憧れだったりもするかもしれないが、定義での「愛着ないし忠誠心」を重んじるなら、じつは地元の川よりも愛した川は日本各地に散らばっている。
土着の民と旅人の違いかもしれないけど。
最近、世界へ出る釣り人が多いと聞く。
実際に私の周りにもそういう友人も多い。
帰ってきてからの土産話も楽しい。
ただ、そういった友人たちの話を聞いて残念でならないのが、自分の住む地域の文化すら理解せずに、海外へ飛び込んでいき「世界を知った」様なつもりになっていることだ。
特に、先祖がその風土で生きていく為に要した思想も理解しようとせずに他国(地域)の空気に触れて刺激を受け、それが洗礼を受けたかの如く悟ってしまうのを見ると「それで良いのかい?」と思ってしまう。
あの国はすごい
あっちの国もすごい
じゃぁ、日本は何がすごい?と聞くと、そういう輩に限って「日本はアレが悪い、これが悪い・・・」と答える。
ありゃ、単純に自分の現状への絶望から、海外へ逃げただけかい。
ならいっそ、その国に生まれ住み、そこで商いしてみろ。
まるでシイラもやったことがないのにマグロに挑んで、オフショアの何たるかを語る釣り人のように見えてしまう。
私自身も、僅かだけどキリスト教圏と仏教圏、そしてヒンドゥー教圏にて釣りもしてきた。
素晴らしい景色、文化、魚との出合いもあった。
その中で一番印象に残っているのは、バリ島から船で渡った小さな離島の、そこで行われていた山に来ていた海の神様を、もう一度海へ帰す為に祭りの風景だ。
あまり観光客は参加させてもらえないのだけど、なぜか参列に並んで一緒に小さな寺院へたどり着き、豊かな生活(安全と豊漁)への感謝を神へささげる儀式を行ったときに、頭に浮かんだのは伊豆の八幡港で見た際だった。
あれは、日本各地で行われているお盆の行事、御霊を迎え返すのと本当に酷似していて、ひょっとして海洋民族というのは、宗教のルーツを超越しているんじゃないかとさえ想いを張り巡らせた。
見たこともない魚を釣る。
それは楽しい事に間違いはない。
遠くへ行く。
旅人としての本能であるから、否定はしない。
だけど、もう少し、足元にも目を向けた後に、遠くの文化へ触れてみてはどうだろうか。
もちろん、人と比べての「俺の方が凄い秘境へ行ったんだ」とか、「秘境・怪魚を語ったマニュアル商売」という輩には用のない話ではあるのだが、もしも純粋に釣り人として異文化に触れていみたいと言うのならば、日本は半島や分水嶺を一つ挟んだだけで、釣りも変わり文化も違ったりするものである。
イワナなんかは、DNAが違ったりもする。
そこで何に気が付くか。
繊細な、何か。
それが旅人としての慣性であり、楽しみ方の奥深さでもあると思うのだ。
ぜひ、今海外の釣りに目を向けているアングラーには、その前に日本という国土の釣りをきちんと見てから旅立ってほしい。
郷土愛も持てなけりゃ、愛国心も減ったくれもない。
海外や地方へ行って、「お前の国(街)には、どんな釣りがあるんだい?」と言われた時に、胸を張ってこたえられるかね?
あ、そうそう。
ある意味でやり切った友人が、南の島でカジキ漁師をやっているのだが、去年関東へ帰ってきたときに食事をした。
んで、その時に「タピオスのフローティングで、南の島でなんか釣ってみて」なんて言う話をした。
後日画像が送られてきた。

キハダマグロだそうだ。
カジキの餌にするのだとか(笑)
何がウケるって、元記者のくせに、写真に日付入れる事か(爆)
- 2018年1月30日
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