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ルアー職人への道

  • ジャンル:釣り具インプレ
…以下抜粋…

1905年にラウリ・ラパラ生誕

1930年代、漁の為にルアー作りをはじめる。

1929年からの世界恐慌もあり、暮らしは非常に貧しいものだった。家族や生活の為、様々な工夫を漁に活かし、嵐の中でもボートを漕ぎ続けるラウリの姿があった。

1936年、ファースト・ラパラの完成。 漁師生活から学んだ経験を生かし、コルクに銀紙を巻きつけた。
ファースト・ラパラの完成。驚くべき釣果をもたらしたこのルアーは、オリジナルフローターの原型になった。

1939年、ソ連×フィンランドの戦争により、コルクやバルサの調達が難しくなり、松の皮でルアーを製作。
1940年代 、ラウリ・ラパラ兵役に就く。当時、前線の食料調達は、爆薬を用いての魚の捕獲が主だったが、ラウリはルアーを用いて驚くべき漁獲量を証明。兵役を終える頃には、この噂がフィンランド全体に広がる。

『ルアー職人への道』

噂が噂を呼び、ラウリの元にルアーの注文が殺到。息子たちと共に本格的にルアーの生産がはじまる。
1952年、ヘルシンキオリンピックと見本市。釣り好きのアメリカ人選手が釣具店からラパラをお土産に購入。同時期に開催された見本市での展示から評判になる。これを機に様々な形で北米にラパラが浸透していく。

1959年、ラパラ販売会社「ノーマーク社」の設立。ラパラに魅せられたアメリカ人バイヤー、ロン ウェーバーらによりノーマーク社 設立。代理店契約を結ぶ。

1962年、 女優マリリン モンローを特集した LIFE誌 にラパラの記事が同時掲載。知名度が飛躍的に伸び、300万個のバックオーダーを抱える。

1965年、カウントダウン発表。永久定番と呼ばれるカウントダウンの発表。ラウリの四男カウコが水難事故で死去。深い悲しみに暮れるラウリを、息子であるエスコ・リスト・エンショの三兄弟が盛り立てる。

1974年、ラウリ・ラパラ死去。

1982年 シャッドラップ発表と『第二次ラパラ フィーバー』
ラウリ・ラパラ最後の作品「シャッドラップ」発表。35万個がソールドアウトし、100万個のバックオーダーを抱える。

1999年、ラパラ ジャパン設立。
 
2011年、ラパラ・スタイル設立。
http://www.fimosw.com/s/0734
(^_^)v


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