ZEROを、零(れい)に。


少し昔にですが鬼怒川でシーバスを釣りました。

週1〜2回のペースで通い、ポイントを探しながら3ヶ月。

課した条件として「橋脚と明暗」「堰」を外すこと。
(日中に他魚種狙いの友人達とバサーに交じり堰付近で釣りはしましたが)

あそこまで行って教科書のようなポイントで釣るのは勿体無いなぁ、とハードルをあげた結果かなり時間が掛かりましたwww

雨後数日、ベイトの溜まる要素、ベイトと捕食者のポジション、地形と流れ、タイミング。

海から距離があリ、いくつかの堰を越えたその先にソコはありました。

課した条件により釣れちゃった感じは無く、なぜアソコにシーバスは居たのかを考えると、今はココしかないと思えるポイントであったと言えますし、釣れる条件が整っていた瞬間であったと、多くの気づきをもたらしてくれた。



釣りをする地域やエリア、自然環境の違いにより当てはまる条件はそれぞれである為、釣れるポイントとは一概に「こうである」と言えないのですが、よく言われるように、

付近一帯で相対的に見てより多くの条件(要素、様々な事象のタイミング)が重なっている。



人間は陸の生き物であって得られる水の中の情報は一部。

人が「おっ、此処はいかにも釣れそうだ!」っと感じるところはなにかしら特別な変化があるように思います。


魚達はそんな美味しいポイントを見逃さず上手に利用しエサを捕食しているのでしょう。
365日、24時間の時間軸で適切なアプローチを以ってすれば、条件のストライクゾーンの広い狭いはあれど、「そこ」は魚の付くポイントである確率は高いのではないかと。(数の多少、サイズの大小は別として)


逆に、ここは絶対に釣れない。
なんて言いきれるポイントはあるのでしょうか?

海と繋がり水があればどんなポイントも釣れる可能性は「ゼロ」とは言いきれません。

ただし前提として、そこで「釣りをしてみること」が条件となるでしょう。



あれ?ここはもしかすると?

へぇー。

ほぅ。

そうなんだ。




そこに行ってみよう。

あそこに行ってみよう。

動機はなんであれ、まずは自分で行って、ルアーを投じてこそ初めて可能性が生まれる。






東京湾に流入する県境河川中流域のいくつかあるポイントのひとつ。

こっち方面へ行くときに立ち寄るのですが、あそこが釣れて、なんでここは釣れないのだと結果が伴わず、どうしたものかと思っていたのですがね、釣れましたよ。

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セイゴっすww



時期としては過ぎちゃった感が否めないけどタイミング次第で化けるかな、なんて思ったり?
でもね、他場所と時期がカブるんすよねww



では!

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