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▼ 脱ドラッグの戦い
- ジャンル:日記/一般
薬物依存者は多い。
私もそのうちの一人だった。
しかし、今年の春は、その長い堕落に打ち勝つべく、勇気を出して一歩を踏み出したのでここに記す。
おそらくこの戦いは、判る人にはわかるし、全くそこへ陥ったことのない者には理解できない戦いだろう。
だから、判らない人は読む必要もないし、そこを理解してもらおうという気もない。
ただ、私と同じ症状に苦しむ人に、この戦いは一人ではないという、「救いようのない気持ち」の緩和となれば、それでいいと思う。
一番最初は興味本位だった。
友人から「これ凄いから試してみな」と勧められ、その薬(今は流通していない)を一錠だけ喉に流し込んだ。
薬におかされていなかった私の体は、そのたった一錠の薬によって、今までの憂鬱間、そして苦痛を一瞬にして消し去ることを覚えた。
そしてその幸福の時間は、8時間の「生きているという実感」をももたらした。
しかしそれは薬がもたらした幸福であり、その効力が切れると途端にリバウンドがやってくる。
まず、異常なほどの喉への枯渇症状が出る。
と、同時に、まるで脳が委縮していくような感覚が訪れ、やがて薬を飲む以前の状態・・・いや、むしろそれ以上の脱力感が襲ってくる。
人は生命の危機を感じるレベルでのケガ、病気、を経験すると、その瞬間に必ず思う事がある。
生まれた時の、なんの異常もない体への渇望。
薬が切れると、必ずと言って良いほど、それと似た感覚に近づいていた。
そして、その地獄から出る方法は、また薬を飲むことだった。
一般的な常識に、「良い」「悪い」という認識(良識)があると思うが、この投薬はそういう意味合いはなかった。
飲まずにいられないのは、身体的依存なのか、精神的な依存なのかは判らない。
ただ、飲まなくては心身共に地獄が訪れ、飲めば春に咲く花の美しさも感じることができる。
それを10年繰り返した。
そこへ使ったお金も、恐ろしいことになっている。
先日、気になる症状が現れた。
今までに効いていた薬が、全く効かないのだ。
実はこの数年、薬はますます強くなり、手を付けるようになったあのころに比べると、その効果時間も得られる効果も大幅に広がったのだが、先日症状のピークで投薬しても、全く効果が表れないどころが、薬が切れた時にやってくる「絶望感」が恐ろしい厚みでやってきた。
つらくて眠れない。
息をするのもつらい。
家族が寝静まるベットを抜け出し、気付かれないように暗く冷たい階段を下りて、オーバードーズと解かっていながらも、もう一粒のその白い薬を体に入れる。
つらさを上回る睡魔がやって来るまでしばらく居間で時間をつぶし、また気付かれないようにベットへもぐりこむ。
それが1週間ほど続きた時に、決心した。
このままじゃ、ほんとにマズイことになる。
仕事、家族、釣り。
いろんなことを考えた。
今の自分のままでは、本当にダメなんじゃないかと。
確かに投薬して得た日常は、多くの人に気づかれずに時間の共用と成果をもたらす。
しかしこのまま行ったら、いつかある時、いつかある線でオーバーフローを始めてしまうリスクが付きまとい、さらにそれにおびえる事は、すさまじく精神的にマイナス方向だと思う。
数年前、ウィルス性のアレルギーで緊急入院をし、また別の薬漬けの1か月で知ったことは、投薬中のすさまじいいインスピレーション以上にそれに頼ることでしか存在しないのなら、いままでの自分の存在自体が否定されてしまうという怖さだった。
そしてこれが脱薬物を決定づけた理由なのだが、「このまま投与していったら、いったい死ぬまでにどれほどの金額を費やすのか」を計算してみた。
笑えなかった。
そして2週間前、薬を絶った。
判っていたが、すさまじい地獄が訪れる。
10数年のながい影を断ち切るのは、容易ではないことは判っていた。
禁断症状が出ると、息をするのがきつい。
意識も途切れ頭痛もする。
だけど、その薬はもう手元にないのだ。
何度も手に入れようと思ったが、家族の顔を思い浮かべて踏みとどまった。
もちろん対策はしている。
ケミカルではなくナチュラル系へのシフト。
高刺激物の接種を控え、そしてこれは意外と思うかもしれないが、水を大量に飲むことで少し症状が和らぐような気がしている。
つらい時ほど落ち着く気持ちを得る事。
これは難しいことではあるが、今までに自分が生命の危機に陥った時のことを思い出しながら、「あれに比べれば」と言い聞かせるのが効果的だった。
そしていま、このログを書いている。
実はそれがすごく大事なことで、文章に書くという事は自分自身に宣言をするという効果がある。
たった今も、あの薬が欲しいという欲求はある。
その傍ら、実は症状が緩和してきているという、ほんの少しの希望もある。
ドラッグとは、そういうものが多い。
弱い薬では効かなくなったとき、より強いものを求め、そして手の打ちどころがなくなるのだ。
いま、私は最後の一粒の前でこの文章と対峙し、勇気をふり絞る。
何が何でも、この薬をやめるのだ。
脱薬物。
多くの人が薬物に依存する現実がある。
本当に大変な道のりだけど、ここを乗りきれば新しい世界が待っていると信じて。
あ、花粉症の話しですよ。
私もそのうちの一人だった。
しかし、今年の春は、その長い堕落に打ち勝つべく、勇気を出して一歩を踏み出したのでここに記す。
おそらくこの戦いは、判る人にはわかるし、全くそこへ陥ったことのない者には理解できない戦いだろう。
だから、判らない人は読む必要もないし、そこを理解してもらおうという気もない。
ただ、私と同じ症状に苦しむ人に、この戦いは一人ではないという、「救いようのない気持ち」の緩和となれば、それでいいと思う。
一番最初は興味本位だった。
友人から「これ凄いから試してみな」と勧められ、その薬(今は流通していない)を一錠だけ喉に流し込んだ。
薬におかされていなかった私の体は、そのたった一錠の薬によって、今までの憂鬱間、そして苦痛を一瞬にして消し去ることを覚えた。
そしてその幸福の時間は、8時間の「生きているという実感」をももたらした。
しかしそれは薬がもたらした幸福であり、その効力が切れると途端にリバウンドがやってくる。
まず、異常なほどの喉への枯渇症状が出る。
と、同時に、まるで脳が委縮していくような感覚が訪れ、やがて薬を飲む以前の状態・・・いや、むしろそれ以上の脱力感が襲ってくる。
人は生命の危機を感じるレベルでのケガ、病気、を経験すると、その瞬間に必ず思う事がある。
生まれた時の、なんの異常もない体への渇望。
薬が切れると、必ずと言って良いほど、それと似た感覚に近づいていた。
そして、その地獄から出る方法は、また薬を飲むことだった。
一般的な常識に、「良い」「悪い」という認識(良識)があると思うが、この投薬はそういう意味合いはなかった。
飲まずにいられないのは、身体的依存なのか、精神的な依存なのかは判らない。
ただ、飲まなくては心身共に地獄が訪れ、飲めば春に咲く花の美しさも感じることができる。
それを10年繰り返した。
そこへ使ったお金も、恐ろしいことになっている。
先日、気になる症状が現れた。
今までに効いていた薬が、全く効かないのだ。
実はこの数年、薬はますます強くなり、手を付けるようになったあのころに比べると、その効果時間も得られる効果も大幅に広がったのだが、先日症状のピークで投薬しても、全く効果が表れないどころが、薬が切れた時にやってくる「絶望感」が恐ろしい厚みでやってきた。
つらくて眠れない。
息をするのもつらい。
家族が寝静まるベットを抜け出し、気付かれないように暗く冷たい階段を下りて、オーバードーズと解かっていながらも、もう一粒のその白い薬を体に入れる。
つらさを上回る睡魔がやって来るまでしばらく居間で時間をつぶし、また気付かれないようにベットへもぐりこむ。
それが1週間ほど続きた時に、決心した。
このままじゃ、ほんとにマズイことになる。
仕事、家族、釣り。
いろんなことを考えた。
今の自分のままでは、本当にダメなんじゃないかと。
確かに投薬して得た日常は、多くの人に気づかれずに時間の共用と成果をもたらす。
しかしこのまま行ったら、いつかある時、いつかある線でオーバーフローを始めてしまうリスクが付きまとい、さらにそれにおびえる事は、すさまじく精神的にマイナス方向だと思う。
数年前、ウィルス性のアレルギーで緊急入院をし、また別の薬漬けの1か月で知ったことは、投薬中のすさまじいいインスピレーション以上にそれに頼ることでしか存在しないのなら、いままでの自分の存在自体が否定されてしまうという怖さだった。
そしてこれが脱薬物を決定づけた理由なのだが、「このまま投与していったら、いったい死ぬまでにどれほどの金額を費やすのか」を計算してみた。
笑えなかった。
そして2週間前、薬を絶った。
判っていたが、すさまじい地獄が訪れる。
10数年のながい影を断ち切るのは、容易ではないことは判っていた。
禁断症状が出ると、息をするのがきつい。
意識も途切れ頭痛もする。
だけど、その薬はもう手元にないのだ。
何度も手に入れようと思ったが、家族の顔を思い浮かべて踏みとどまった。
もちろん対策はしている。
ケミカルではなくナチュラル系へのシフト。
高刺激物の接種を控え、そしてこれは意外と思うかもしれないが、水を大量に飲むことで少し症状が和らぐような気がしている。
つらい時ほど落ち着く気持ちを得る事。
これは難しいことではあるが、今までに自分が生命の危機に陥った時のことを思い出しながら、「あれに比べれば」と言い聞かせるのが効果的だった。
そしていま、このログを書いている。
実はそれがすごく大事なことで、文章に書くという事は自分自身に宣言をするという効果がある。
たった今も、あの薬が欲しいという欲求はある。
その傍ら、実は症状が緩和してきているという、ほんの少しの希望もある。
ドラッグとは、そういうものが多い。
弱い薬では効かなくなったとき、より強いものを求め、そして手の打ちどころがなくなるのだ。
いま、私は最後の一粒の前でこの文章と対峙し、勇気をふり絞る。
何が何でも、この薬をやめるのだ。
脱薬物。
多くの人が薬物に依存する現実がある。
本当に大変な道のりだけど、ここを乗りきれば新しい世界が待っていると信じて。
あ、花粉症の話しですよ。
- 2016年4月1日
- コメント(6)
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登録ライター
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工藤さん、ご無沙汰しております。
2月からL92と言う乳酸菌をブチ込んでいます!これ、悪くないかもしれません。
急激な効果は無いのですが、切れ目のような禁断症状も副作用も無いですからね(笑)
Toru
埼玉県