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対象魚

釣りという行為の本質

  • ジャンル:日記/一般
釣りという行為に対する解釈は人それぞれであろう。
スポーツであるという人もいれば、趣に満ちた娯楽であるという人もいる。
もちろんそういう考え方が当てはまる部分もある。
しかし釣りという行為の本質は、「狩り」である。
弱肉強食のピラミッドの頂点に立つ人間が、それより弱い位置に立つ魚を狩るという、ただそれだけの話である。
古よりDNAに刻まれ続ける潜在的な狩猟本能に身を委ね、獲物を獲得した際の興奮に酔いしれることこそが、釣りの本質的な楽しさなのである。
人間社会で生きていく上で必ず身につけなければならない道徳とは掛け離れた部分が釣りにはある。
釣りにおける殺生とは、生きるための殺生ではなく、快楽のための殺生であり、それは人間社会の道徳の上では許されざるものであるからだ。
無駄な殺生を罪と考えるのなら、釣りとは罪深き行為といえる。
釣った魚を生活の糧にしている人は別として、一般的な釣り人は魚など釣らなくても普通に生活は出来るはずである。
釣った魚を美味しく食べるというのは、生きるための行為ではなく、あくまで生活を豊かにするための行為に過ぎない。
例えリリース前提で釣りをしていたとしても、口に針を掛けて引きずり回し、魚にとって苦痛の場でしかない陸上にずり上げている時点で、半殺しにしているようなものである。
リリースをしたからといって、一体そのうちどれだけの魚が生き長らえることが出来るのか。
リリースしたことで、自分が罪のない魚を半殺しにしたということに対する罪悪感が少しでも薄れると考えているのなら、それは人間のエゴでしかない。
もしも地獄というものが本当に存在するのなら、釣り人は死後皆揃って地獄に落ちるのである。
もっとも自分はそんなオカルトは信じてはいないが。
もし魚に対する慈悲の心があるのなら、今すぐに釣りなどやめるべきである。
どんな釣り方をしようとも、必ず魚を傷つけることに変わりはない。
自分は釣りの持つ野蛮とも言える本質を受け入れた上で、その快楽に身を委ねているに過ぎない。
釣りをしているときだけは、理性にコントロールされた人間社会を離れて、野生に還ったかのような解放感を感じるのである。

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