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ヨーロッパ ピクニック

8月 日本では「戦争」や「平和」という言葉が話題になる季節。
僕の8月は、確かに「戦争」「平和」というキーワードも気になりますが
記憶に鮮烈に残るキーワードは「ヨーロッパ ピクニック」になります。
日本ではあまり話題になりませんが、僕がヨーロッパを旅していた頃
は冷戦が終わりかけの頃。

ポーランドではワレサが連帯を組織し
ソビエトではゴルバチョフがペレストロイカを唱え
東ヨーロッパが民主化の渦に巻き込まれてゆきました。
今のようにインターネットでリアルタイムに情報が入らない当時
僕のような旅行者は、各国の観光局や外務省の渡航情報を
たよりにヨーロッパの動向を探りながら出かけたものです。

そんな中、東ヨーロッパのハンガリーで事件が起こりました。
1989年8月ハンガリーのショブロンというオーストリアとの国境を接する
街でそれは起こりました。
ピクニックという名目で東ドイツの人々もショブロンに集まり
ハンガリーの国境が開放されました。
まさに東ドイツの人々はハンガリーからオーストリアを抜け西ドイツ
に怒涛のように流れ込みました。
当時僕はその国境の解放の前年と解放後3ヶ月後に
ドイツを訪れました。

もしかしたらハンガリーの国境はソビエトの戦車で
埋め尽くされているかも?
そんな妄想も否定できない状況でした。
実際僕が目にしたのは、アウトバーンには
トラバントが息も絶え絶えに走る姿でした。

小さなトラバントに大柄なドイツ人が乗り込み、車のルーフキャリアには
荷物を積み上げて2ストロークエンジン特有の白煙を上げて走る様子は
東ドイツの人々の想いが象徴されているかのようでした。
車もトラバントが有名ですがソビエト製のラダやチェコのシュコダも
見られました。
それらの車もアウトバーンでは動くシケインのごとく
100キロも出ないような車でした。

「ヨーロッパ ピクニック」を境に東ドイツも国境を開放し
さらにその後東ドイツの指導者ホーネッカもチリに亡命し
東西ヨーロッパは一つになりました。
ヨーロッパの国々が変わる姿をリアルタイムで見ていた僕は
訪れるたびに変わる姿に感動さえ感じました。
国が変わるとはこういうことなんだと実感しました。

いずれ訪れてみたい東ヨーロッパ
民主化の波で古いヨーロッパが姿を消しつつある
昨今の東ヨーロッパ。
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ブダペストのデリ駅
主に国内線の発着駅

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ブダペストの中央駅
国際急行などの発着駅です
以前廃止になったパリ発ブダペスト行きのオリエント急行もここを
発着駅でした。


写真は僕の友人が行ってきたものです。




 

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