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▼ 平家谷 夏を感じるっ♪
- ジャンル:家族
- (食べ物)
八幡浜市保内町にある平家谷そうめん流しに行って来ました。
夏場でも曇ればヒンヤリするような渓谷にあります。
毎年この時期に来ていますが、驚くほど美味っ!て訳ではありません。
この時期の風物詩って感じですねっ♪

ただっ!子供達は自分で取れる事が嬉しくて、無理して食い過ぎ。。。
連休時期ともなれば長蛇の列が出来て1時間待ちもあります。
詳しくはコチラをどうぞ
そうめん食べた後は、平家谷公園で遊びます!
どうも公園管理がされてなかったのか草ボォ~ボォ~で遊具が使えず。。。
それでもっ!貸切だったので


ローラー滑り台を滑りまくり、逆登りしてみたり楽しめましたっ♪
先日、先輩Kさんからハマチを戴きました。
夏場でも曇ればヒンヤリするような渓谷にあります。
毎年この時期に来ていますが、驚くほど美味っ!て訳ではありません。
この時期の風物詩って感じですねっ♪

ただっ!子供達は自分で取れる事が嬉しくて、無理して食い過ぎ。。。
連休時期ともなれば長蛇の列が出来て1時間待ちもあります。
詳しくはコチラをどうぞ
そうめん食べた後は、平家谷公園で遊びます!
どうも公園管理がされてなかったのか草ボォ~ボォ~で遊具が使えず。。。
それでもっ!貸切だったので


ローラー滑り台を滑りまくり、逆登りしてみたり楽しめましたっ♪
先日、先輩Kさんからハマチを戴きました。
サンマリンで出船して、キャスティングメインな釣行だったとの事です。
先輩Kさんの見事なペンシル捌きでハマチもメロメロだったはずっ♪
んでっ!
脂ノリノリで美味かったです!
ベイトが切替わった直後なのか?腹身も厚くて最高でした。
ゴ(⌒人⌒)チになりました。
平家谷の由来
文治元年(1185)長門の国壇の浦(現在の山口県下関市)の源平の戦に全敗した平家一族が瀬戸内海を東西南北に落ちのびていきました。そのうち、平有盛系一族8人は三崎半島の瀬戸内海沿いに流れつき良き場所を求めて逃げ落ちた場所が、現在の平家谷であるとされています。
その当時、この地は昼夜の区別がつかないほどの入らず山であり、彼らは此処へ身を隠して百姓になりました。その後、東・西へ見張所を造り毎日見張りをしながら500m位下の現在のハザマ谷の荒地を毎日開墾して3年の月日がたったある日、見張人が白サギ鳥が海岸近くに群れ飛ぶ様を敵の白旗と見誤り、今敵らしい白旗が海岸の方より押し寄せて来ると皆に知らせました。一同は、逃れる術もなく、捕らえられて憂目を見るよりはと相談の結果、平家の子孫を跡へ残したいと話し合い、2人を残して6人の者は、ハザマ谷の田の中で切腹してしまいました。
残された2人は、6人の死体を平家谷の入らずの森の岩穴へ埋め、その後は両家部落で生き続けました。そして、平家谷へは一切近づけなくなり両家部落の方々が切腹された方々の霊を慰める為、旧暦の11月初申の日に部落中が集まり、毎年田で取れた米で酒を造りお祭りをすることにし、お祭りの日には、弓の稽古、神楽、その他の行事を行うようになりました。しかし明治34年頃、家庭で酒を造る事が禁止されこのお祭もなくなってしまいました。
6人が切腹したハザマ谷には、大正10年頃まで石むろが築かれ自害の場所の印が残れていました。また、平家谷及びハザマ谷は明治の中頃まで女人は一切近づく事が出来ず、白い物は敵源氏の旗示であるので身につけず、平家の子孫は正月にも白餅をつくことも出来ませんでした。代わりに12月末には赤飯を造り正月15日まではその赤飯に毎日お茶をかけて食べていましたが、この習慣は大正10年頃にはなくなりました。
そして、現在の両家部落及び枇杷谷部落又は鼓尾部落は一族が半島へ流れついて平家谷まで逃げのびる途中弱りはて、音楽が好きであった一族のものが鼓尾部落へは「つづみ」を捨て、枇杷谷部落へは「びわ」を捨て、残された2人が部落へ住みつく事になり両家部落の名前がついたといわれています。
八幡浜市観光情報から抜粋
文治元年(1185)長門の国壇の浦(現在の山口県下関市)の源平の戦に全敗した平家一族が瀬戸内海を東西南北に落ちのびていきました。そのうち、平有盛系一族8人は三崎半島の瀬戸内海沿いに流れつき良き場所を求めて逃げ落ちた場所が、現在の平家谷であるとされています。
その当時、この地は昼夜の区別がつかないほどの入らず山であり、彼らは此処へ身を隠して百姓になりました。その後、東・西へ見張所を造り毎日見張りをしながら500m位下の現在のハザマ谷の荒地を毎日開墾して3年の月日がたったある日、見張人が白サギ鳥が海岸近くに群れ飛ぶ様を敵の白旗と見誤り、今敵らしい白旗が海岸の方より押し寄せて来ると皆に知らせました。一同は、逃れる術もなく、捕らえられて憂目を見るよりはと相談の結果、平家の子孫を跡へ残したいと話し合い、2人を残して6人の者は、ハザマ谷の田の中で切腹してしまいました。
残された2人は、6人の死体を平家谷の入らずの森の岩穴へ埋め、その後は両家部落で生き続けました。そして、平家谷へは一切近づけなくなり両家部落の方々が切腹された方々の霊を慰める為、旧暦の11月初申の日に部落中が集まり、毎年田で取れた米で酒を造りお祭りをすることにし、お祭りの日には、弓の稽古、神楽、その他の行事を行うようになりました。しかし明治34年頃、家庭で酒を造る事が禁止されこのお祭もなくなってしまいました。
6人が切腹したハザマ谷には、大正10年頃まで石むろが築かれ自害の場所の印が残れていました。また、平家谷及びハザマ谷は明治の中頃まで女人は一切近づく事が出来ず、白い物は敵源氏の旗示であるので身につけず、平家の子孫は正月にも白餅をつくことも出来ませんでした。代わりに12月末には赤飯を造り正月15日まではその赤飯に毎日お茶をかけて食べていましたが、この習慣は大正10年頃にはなくなりました。
そして、現在の両家部落及び枇杷谷部落又は鼓尾部落は一族が半島へ流れついて平家谷まで逃げのびる途中弱りはて、音楽が好きであった一族のものが鼓尾部落へは「つづみ」を捨て、枇杷谷部落へは「びわ」を捨て、残された2人が部落へ住みつく事になり両家部落の名前がついたといわれています。
八幡浜市観光情報から抜粋
- 2014年6月16日
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登録ライター
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