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▼ 人に秘められた可能性
- ジャンル:日記/一般
- (人生)
明日まで釣りに行けないので、ふと思ったことを書いてみます。
100を超えるアクセス数も一週間ぐらいしか続かなかったし(涙)
僕の知識なんぞたかが知れてるし、人によって考え方に違いがあるけど、
ここでは僕が思うことを書きたいと思います。
「人に秘められた可能性」とは?
それは無限に存在するものだから、ここですべてを表現するのは難しい。
数年前から気になってるというか、どうにかならないかと思うことがある。
それは「戦争」である。
この地球上では、遥か昔から「戦争」というものが絶えず続いている。
「ベトナム戦争」、「湾岸戦争」、「イラク戦争」・・・・
こうして表現してしまえば、「続いている」とは思わないかもしれない。
しかし、こうした表現は我々のような第三者が作り出したものであり、
決して個別に考えることはできないものであると僕は思う。
それはなぜか?
一度戦争が勃発すれば、標的のみならずその国や地域で暮らしている
まったく無関係の人達まで犠牲となる。
そして当然、そこで戦うことになる兵士達も、全員ではないが犠牲となる。
それを繰り返し、ようやく標的となる者たちを捕まえることでその戦争は
終結とされる。
しかし、本当の意味での「終結」は迎えてはいない。
戦争は実際に戦闘に参加しない人達が決める。
その人達はそこで「終結」と言うだろう。
だけどそうではない。
犠牲となった無関係の人達、その家族や友人、恋人たち。
戦闘により命を落とした兵士たち、その家族や友人、恋人たち。
残された人たちはどう感じているのか。
それは想像もできないほどの悲しみ。
そしてそれはやがて「憎しみ」へと変わっていく。
その「憎しみ」は消えることはない。
「憎しみ」は時間とともにさらに成長し、最悪「復讐」へと姿を変える。
特に無関係であるにも拘わらず、犠牲となった人達の家族や友人たちの
悲しみは復讐へと変わりやすい。
「命の重さ」が違うという意味ではなく、措かれた立場が違うだけで感じ方は
まるで違う。
復讐の標的は戦争を始めた「国」である。
しかし、10年前、9.11のテロを思い出すとよく分かるが、実際に犠牲となる
のはまったく無関係の人たちだ。
そしてまた「憎しみ」が生まれ、「復讐」へと変貌する。
この繰り返しが「戦争」を終わらせないのである。
○○戦争、というものが終わったとしても、憎しみがなくならない限り、
本当の意味での「終わり」はない。
ではどうしたら終わり、真の平和が訪れるのだろうか。
答えは恐らく、みんな解っている。
しかし、それができないから未だに戦争は絶えないのである。
こうした考えも、自分が当事者でないからと言われるだろう。
だけど本当に「平和」を願うのなら、その「心」をみんなが持たなければ
いけないのも事実。
それが「人に秘められた可能性」であると願うばかりである。
それは「戦争」だけに言えることでは決してない。
そして、「考え方」というのも無限に存在するのである。
すぐ否定したり。
限度はあるが、「これが常識だ」と決め付けたり。
何に対してもそうだけど、否定することは自分にとってすごく楽なこと。
だけどそこで得るものは何もない。
もしも否定から入らずに、それについて考えてみて新たな発見などがあれば
どうだろう。
それが自分の力になるはず。
これが常識だ、と決め付けること。
これもまた限度はあるが間違いだ。
自分の中の常識など、たかが知れてる。
世界に自分と全く同じ生き方をしている人間はいないからだ。
自分の常識がそのまま他人の常識とは限らない。
そういう意味でも、やはり「決め付ける」ということは怖いことである。
まあそれが簡単でないことも事実だけど。
こうして一つ一つについて考えてみても、「人に秘められた可能性」が
無限だということがよく分かる。
僕自身も、こうして書いていても出来ていないことはたくさんある。
どう生きるかは人それぞれだけど、僕はもっと大きな器を持った人間に
なりたいと思う。
死の直前、表情に出なくても心で笑えるような人生を歩いてみたい。
100を超えるアクセス数も一週間ぐらいしか続かなかったし(涙)
僕の知識なんぞたかが知れてるし、人によって考え方に違いがあるけど、
ここでは僕が思うことを書きたいと思います。
「人に秘められた可能性」とは?
それは無限に存在するものだから、ここですべてを表現するのは難しい。
数年前から気になってるというか、どうにかならないかと思うことがある。
それは「戦争」である。
この地球上では、遥か昔から「戦争」というものが絶えず続いている。
「ベトナム戦争」、「湾岸戦争」、「イラク戦争」・・・・
こうして表現してしまえば、「続いている」とは思わないかもしれない。
しかし、こうした表現は我々のような第三者が作り出したものであり、
決して個別に考えることはできないものであると僕は思う。
それはなぜか?
一度戦争が勃発すれば、標的のみならずその国や地域で暮らしている
まったく無関係の人達まで犠牲となる。
そして当然、そこで戦うことになる兵士達も、全員ではないが犠牲となる。
それを繰り返し、ようやく標的となる者たちを捕まえることでその戦争は
終結とされる。
しかし、本当の意味での「終結」は迎えてはいない。
戦争は実際に戦闘に参加しない人達が決める。
その人達はそこで「終結」と言うだろう。
だけどそうではない。
犠牲となった無関係の人達、その家族や友人、恋人たち。
戦闘により命を落とした兵士たち、その家族や友人、恋人たち。
残された人たちはどう感じているのか。
それは想像もできないほどの悲しみ。
そしてそれはやがて「憎しみ」へと変わっていく。
その「憎しみ」は消えることはない。
「憎しみ」は時間とともにさらに成長し、最悪「復讐」へと姿を変える。
特に無関係であるにも拘わらず、犠牲となった人達の家族や友人たちの
悲しみは復讐へと変わりやすい。
「命の重さ」が違うという意味ではなく、措かれた立場が違うだけで感じ方は
まるで違う。
復讐の標的は戦争を始めた「国」である。
しかし、10年前、9.11のテロを思い出すとよく分かるが、実際に犠牲となる
のはまったく無関係の人たちだ。
そしてまた「憎しみ」が生まれ、「復讐」へと変貌する。
この繰り返しが「戦争」を終わらせないのである。
○○戦争、というものが終わったとしても、憎しみがなくならない限り、
本当の意味での「終わり」はない。
ではどうしたら終わり、真の平和が訪れるのだろうか。
答えは恐らく、みんな解っている。
しかし、それができないから未だに戦争は絶えないのである。
こうした考えも、自分が当事者でないからと言われるだろう。
だけど本当に「平和」を願うのなら、その「心」をみんなが持たなければ
いけないのも事実。
それが「人に秘められた可能性」であると願うばかりである。
それは「戦争」だけに言えることでは決してない。
そして、「考え方」というのも無限に存在するのである。
すぐ否定したり。
限度はあるが、「これが常識だ」と決め付けたり。
何に対してもそうだけど、否定することは自分にとってすごく楽なこと。
だけどそこで得るものは何もない。
もしも否定から入らずに、それについて考えてみて新たな発見などがあれば
どうだろう。
それが自分の力になるはず。
これが常識だ、と決め付けること。
これもまた限度はあるが間違いだ。
自分の中の常識など、たかが知れてる。
世界に自分と全く同じ生き方をしている人間はいないからだ。
自分の常識がそのまま他人の常識とは限らない。
そういう意味でも、やはり「決め付ける」ということは怖いことである。
まあそれが簡単でないことも事実だけど。
こうして一つ一つについて考えてみても、「人に秘められた可能性」が
無限だということがよく分かる。
僕自身も、こうして書いていても出来ていないことはたくさんある。
どう生きるかは人それぞれだけど、僕はもっと大きな器を持った人間に
なりたいと思う。
死の直前、表情に出なくても心で笑えるような人生を歩いてみたい。
- 2011年11月27日
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