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競馬名実況史 1992年ジャパンカップ ~ 金色のターフに舞い降りたトウカイテイオー ~

真夜中にひっそりと更新される追憶の競馬ヒストリー




アナウンサーは何のとまどいもなく言った


『 世界の一流馬が揃いました!


第12回ジャパンカップ、今スタートです! 』








世界の競馬との交流

いや、発展した日本の競馬人は自分達の力を試したくなったのかもしれない。



競馬の本質とは


俺の馬こそが一番だと主張する二人がいたら

< ならばどちらが上か実際に走らせてみようではないか。>

そんな人と人の意地の張り合いが形になったものだろう。



そう、実際にやってみないと解らないじゃないか。


当時の日本競馬会でそれは、一部の志のある人間によって

片手で数えるほどのみ僅かに実現していたに過ぎなかった。



そして突きつけられる厳しい現実。


過酷な長旅、慣れない環境、全く異質なナチュラルな競争馬場

そのほとんどはただボロボロに打ちのめされるだけの歴史であった。


そのアウェーの厳しさに見た一縷の望み

「 せめて日本でやれれば・・・ 」





そして1981年


遂に日本競馬初の国際競争

第1回ジャパンカップは開催される。


何ゆえ、最初と言う事もあり競馬のオリンピックという大層な副題を気にし過ぎたために

今では思わず笑ってしまうような事もあった。

特にインドからの招待馬、オウンオピニオンは競馬通の間では今でも語り草になっている。




そして希望は目の前の現実に握りつぶされる。


なんとかかき集めたと言えるとりあえず外国籍の馬に上位独占、おまけに日本競馬のレコードタイムを更新されての惨敗であった。




その後、日本勢も多少は盛り返した


第3回ジャパンカップでは3年の雌伏の時を経て遂に大成した

天皇賞馬キョウエイプロミスが自身の限界を賭けてスタネーラを頭差まで追い詰めた。



第4回で遂にカツラギエースが日本馬初の栄冠を掴むと

翌年、第5回には最強馬シンボリルドルフが日本勢連覇を達成。




だが、しかしこれで日本も世界に肩を並べたなどと思う人は誰もいなかった。

地の利さえあれば、この程度の相手なら戦える・・・




それを示すかのように日本のレベルが少しでも落ちれば惨敗を重ね

豪州勢の様に時差もなく日本にマッチする馬が現れれば脅威となった。





シンボリルドルフの勝利から6年


日本勢は決して世界の一流とは呼べない相手に黒星を重ねたのであった。






日本競馬、開化の夜明け。


1992年

ジャパンカップは遂にその価値を認められ国際グレードⅠの格を与えられる。

これはつまり日本の競馬人が憧れる、凱旋門賞などと同じグレードが与えられたのだ。




その誇りは

国際化の波に晒されるとはどういう事なのかという事態に恐れへと変わる。





この年、欧州年度代表馬に選定された一頭の馬がいた。

ユーザーフレンドリー



惜しくも2着に敗れた凱旋門賞の次のレースをアメリカの競馬の祭典ブリーダーズカップ・ターフではなく

ジャパンカップに出走する事を正式に表明。



芝の過去の栄光ではなく今の世界最強馬が日本に来る。

日本競馬会は色めきたった。




何故ならばこの年、日本馬は最強のラインナップが揃うはずだった。



親子3代天皇賞・春を制し長距離では無敵の強さを誇るメジロマックイーン。

そして皇帝の後継者、無敗で2冠を制したトウカイテイオー。

スパルタトレーニングによって誕生した快速サイボーグ、ミホノブルボン




だが、メジロマックイーンは骨折で休養

すると苦手の長距離で3冠奪取に失敗したミホノブルボンまで直前に故障発生。



唯一残された頼みのトウカイテイオーは休み明けの天皇賞・秋で惨敗を喫していた




『 今回は世界の最強馬、博覧会 』



国際グレードⅠのタイトルはユーザーフレンドリー以外にも

全ての競馬の起源と呼ばれる英国ダービー馬が2頭(2世代)出走。



そして前回、前々回で日本での圧倒的強さを発揮していた豪州勢からも

豪州最強馬の呼び声高いレッツィロープ

そして92年の豪州ダービー馬、ナチュラリズムと2世代の豪州年度代表馬が参戦。




アメリカからも当時のアメリカ芝レース、最強馬決定戦

アーリントンミリオン勝ち馬ディアドクターが参戦。


*アーリントン競馬場の100万ドルレースという解りやすいレース





ジャパンカップ史上・・・

いや、望みうる世界最高の芝レース馬が正に世界中から集まったのであった。





『 今回は馬が揃った 』

競馬評論家として最早、右に出る者がないと言える

大川慶次郎は言った。





それでも日本のファンは微かな望みを皇帝シンボリルドルフの息子

トウカイテイオーの復活に託したのであった。





1992年11月29日



直前まで降った雨は競争馬場を軟化させた。

これで日本勢は堅い、早い時計が出る世界的には特殊な日本のコースという地の利さえ失った




差し込む光は白いモヤを作り出した


そのベールがコースの4分の1を覆う中

15時20分



遂に発走の時を迎えた。
















後記


日本の野芝は冬に枯れる

傾いた夕日が照らす金色のターフを走る人馬を


17万の歓声が祝福する。


日本競馬に熱があった時代の映画の様なワンシーン。

多くの人はそれに目を奪われるかもしれない。



だが、トウカイテイオーを立て直した陣営のスタッフ

完璧なエスコートをした騎手達



それに負けないプロの伝える仕事をした解説者こそがこの動画の価値かもしれない。


特に”混雑”し混乱してしまいがちな勝負どころの4コーナーから最後の直線にかけて

日本競馬史に残る、一切の無駄を感じない完璧な名実況と評したい。




インコースからロングスパートで勝負をかけたナチュラリズム


そしてこのレースの1番人気にして欧州、世界最強馬ユーザーフレンドリーを

日本代表トウカイテイオーが馬なり(全く余裕の状態)で颯爽と交わして行く場面をもらさずフォーカスを当てて


尚且つ、先頭争いの2頭に目を奪われがちになる中で

ヒシマサル、さらには猛追を見せるディアドクターをしっかりと伝え

まだレースが2頭の物じゃないと緊張感を高めている。





この個別ではなくて馬群としての動きを完璧に抑えている

隠れたスーパープレーがあった事も伝えておきたい。












6冠を目指す女傑ブエナビスタ


春にブエナビスタを破り、そして欧州の牙城を脅かす凱旋門賞2着

ナカヤマフェスタ。

豊作の世代と呼ばれる新進気鋭の3歳勢。



ユーザフレンドリーが凱旋門賞2着で参戦してから18年。


今やその2着は日本馬が奪取するまでになった。



2010年 11月28日


第30回ジャパンカップが開催される

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