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上宮則幸

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椿の花が

  • ジャンル:日記/一般

光沢のある濃い緑の葉が繁る中に艶やかに咲く椿の花が、萎れて黒ずみポトリと落ちると暫くしてまた春がやって来る。


今はどうか知らんと、通勤前に近所をプラリと散歩ついで、自宅前の急な坂を下り少し離れた商店の生垣を見に行った。
椿の花は花粉を失くして何処と無く瑞々しさを感じない。
花びらの色は薄紫がかった赤。
年末の頃にはもっと艶やかな赤色だったように覚えているのだが。
足下には散ってしまった花が散乱してアスファルトを汚していた。
そろそろ他の花に人目を楽しませる役目を譲るのか?

その近くには梅の木が。
こちらは意気揚々、蕾が綻び始め桃色を僅かに帯びた花弁が覗いている。


「お早う!」

すっとんきょうな大声で不意に声を掛けてきたのはこの商店の高齢の主人で、無類のお喋り好きだ。
そして、昔は磯の大物を求め背負子と釣竿を担いで散々回った釣り師でもある。
いつも武勇伝の数々を楽しく聞かせてくれるが、いかんせん話が長い。
おれが挨拶に応えるより早く、彼の声が続いた。

「最近は釣れてるのかい?」

「お早うございます。最近は忙しかったり体調も優れないから行ってないんだ。」

「どうした?あんなに毎日釣りばっかり行ってたあんたが。」

彼が話し相手をして欲しそうなのが、声の調子から聞き取れた。
出勤前に長話になるといけないから、ポケットの小銭を取り出し商店の軒先に据え付けられた自動販売機でホットコーヒーを買いながら応えた。

「うん、ちょっと去年からバタバタしててね。今日も今から面倒な仕事を片付けに行かなきゃ。また寄らせてもらいますよ。」

そう言って背中を向けると

「そうかい。じゃあ、気を付けて行ってきな。」

物足りなさそうな声が聞こえた。

話しに付き合いたくない訳じゃない。
ただ確実におれ達の会話は長話になってしまうから、出勤前の今はそれは無理だ。




もう10年近くにもなるか?
以前、この商店の前に停めたおれの車の中に彼が釣り道具を見つけてから、主人とおれは度々釣りの話しをするようになった。

彼の昔話しには嫌味な自慢がなく、自分を良く見せようとしないから聞きやすいし共感を覚えるのだ。
また彼は擬似餌にも感心があり、お互いの話しに興味は尽きない。


彼は健康を損なって、増して齢80を過ぎ今では磯には立てないと聞いているが、彼の思い出話しは聞かされているおれの耳にも美しい。
記録的釣果、気象や潮流の読み、遭遇した危険、仲間との友情…
多少の美化はされているにせよ、彼の中で完全に消化され切った思い出なのだろう…





ガレージの愛車に乗り込み、買ってポケットの中に入れていた缶コーヒーを啜りながらさっきの商店の前を通り過ぎた。
主人が満面の笑顔で手を振ってくれた。
おれも笑顔を返した。
あんな風におれもいつか満足な思い出を語りたいものだ…



ひるがえっておれの場合は、後悔ばかりだ。
おれにはまだやり残したり、まだ始めてさえいない事が多過ぎる。
巨大な銀鱗や、芭蕉の背鰭や、暗闇の中の血のような瞳や…



信号が変わりバイパスの交差点で停車して信号を見上げた。
その赤の中にさっきの萎れかけた椿の花の薄紫が浮かび上がり、数瞬だが幻影が脳裏を過った。
萎れかけていた花が徐々に、雄しべは花粉で膨らみ雌しべは潤いを回復して花弁は瑞々しい赤色を取り戻す…
画像と言うよりイメージがパラパラと、逆行するタイムラプスのように。




いつかおれが釣り竿を置く日が来たら…
少しだけそんな事を思ってみたが、いや、そんな日は来ないんだ。


この花はまだ咲いてさえいない蕾だから。










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