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▼ 毎日アホみたいに釣りをしているアングラーたちへ。
今日も釣りにいった、昨日も釣りに行ったし、明日も釣りに行く。
そんなダメ人間たち。これを読んでるあなたもそうかな?
俺はそうである。
今は琵琶湖でバスボートガイドしてるから
毎日の釣りは仕事といえば仕事。新米ガイドだから1年ちょっとしかその生活は続けてない(まだまだペーペーやね。)
でもそのもっと前から毎日アホみたいに釣りに行ってた。
バス、シーバス、雷魚、青物、トラウト、根魚、鯉系、ナマズ、フラットフィッシュ、チヌ…挙げればキリがないけど、いろんな魚を釣ったし、その魚の釣り方が知りたくて何度も通った。
そして釣りのためにいろんなところへいった。
高校時代からアカメが釣りたくて高知に通い続けたし、
豊富な魚種に魅了されて北海道に長期滞在したり。
ボルネオ島ではアジアアロワナやスネークヘッドに狂わされて一年で何度も渡航した。
地球の裏側メキシコで野生のカウボーイを見て卒倒したり、
マレーシアは第二のホームタウンと言えるほど滞在していた。
年齢の割にはとにかく莫大な時間釣りをしてきたと思う。それも一度も止めることなく少年時代から狂ったように釣りをしてきた。
釣りをしてる間はずっと楽しいかと言われればそうでもない。
むしろいろんな悔しさ、苦しさを味わう時間のほうが長かっただろう。
失ったものも沢山あったし、これからもそれで失うものなんて沢山あると思う。
そもそも、地球のあちこちいったって お金をかけたって狙った魚が釣れる保証もない。
そして狙った魚が釣れたからといって人生がそれだけで好転することはほとんどの場合ない。
むしろ釣りで壊れるもののほうが多いんではなかろうか。
釣りの魅力ってなんだろうか。
よく言うのは、狙った魚や自己記録が釣れた時や試合や競い合いに勝った時、何にも変えがたい感動がある。
確かにそれはある。膝が震えてまともに立たなくなる魚が実際にいる。
魚を釣って涙を流すことだってあるだろう。
でもそこまで感動できるようなシーンって釣りをしていて何度遭遇しただろうか。
俺の場合、これだけ釣りをしていても正直数えるほどしかない。
それが釣りをする理由ならもうとっくにやめているだろう。
あとは釣りの時は仕事や家庭の色々な嫌なことを忘れられるなんて人もいる。
確かに釣りをしているその時は、魚が釣れた嬉しさや大自然に囲まれることで忘れられるかもしれない。
人生悲しいことや、辛いことがたくさん起こる。
でも釣りをしてるからという理由でそれらの問題が解決することもなければ救われることなんてない。
釣りが終わったらその問題とは向き合わなければならないからだ。
きっと釣りをアホみたいに続けている連中は、達成感や感動、現実逃避…なんていう感情よりももっと深いところ。
心の奥底に眠った何かが原因なのではないだろうか。
なぜ毎日釣りに狂ったように行ってしまう連中がいるのか。
最近の俺が思うのは、居場所がそこにしかない奴らなんやと思う。
自分もそうだから。
釣りが好きで釣りばかりしてた少年時代、青年時代。その時代は「こいつ釣りが好きやなぁ」と思われるだけ。
でも青春を通り越して大人になって、おっさんになってく。責任も義務も果たさないといけないのに釣りばかりしてるのはどうしようもない奴らだ。
きちんと働いて、休みの日は遊んだり、家族と過ごしたり、飲みに行ってワイワイ話したり。
そんな普通の日常。俺も嫌いじゃないし、とても大事なこと。
でもそれだけだとどこか煮え切らない自分がいる。
最高の居場所ではないのだ。
でも、水辺で魚を追いかけてる時はそこか居場所だって感じる。
水辺に行くと魚がいて、同じくらいバカな友達やライバル、敵だって沢山いる。
それが最高に居心地がよいのだ。
この先はどうなるかはわからない。居場所が他にも見つかるかもしれない
でも今のところ俺は居場所が水辺にしか見つけられない
琵琶湖、日本の海、海外のジャングル、世界の大海原。
どんな大自然の中で釣りをしたって、大変なことも辛いこともなくなったりしないけど、そこに確かに居場所がある
コロナ禍に突入する前、世界中の水辺が居場所だった
でもそれが出来なくなり、琵琶湖に毎日居場所を求めた。
故郷の琵琶湖はとても居心地よかった
ダメな俺も母なる湖で竿を出している時は幸福を感じる。
好きなルアーで、自分がおもろいと思う釣りを琵琶湖でしている時間は自分の居場所であることを実感出来る。
でも、やっぱりそれでも世界中に確かにあった居心地のよい場所を忘れられない。
雄大な自然の中で、多種多様な魚たち、別の世界で生きてきた仲間が沢山いて、そこでの釣りはとても居心地がよいのだ。
ほぼ3年間止まった時計の針。準備を整えてまた自分の居場所を探しにいかなければ。
自分探しの旅なんて古いかもしれないけど、自分がいるべき場所はきっとここではないどこか遠くにあるのだ。
2022年中に自分の居場所に帰りたい。
そう強く願っている今日。
10年前インドネシアのボルネオ島で聴いていた自分の青春時代の音楽をふと再生してしまい。
こんな長文を書いてしまったとさ。
大人になって最近はあまりこういう文章書かなくなっちゃったけど、
自分のブログだからたまにはいいよね。
そんなダメ人間たち。これを読んでるあなたもそうかな?
俺はそうである。
今は琵琶湖でバスボートガイドしてるから
毎日の釣りは仕事といえば仕事。新米ガイドだから1年ちょっとしかその生活は続けてない(まだまだペーペーやね。)
でもそのもっと前から毎日アホみたいに釣りに行ってた。
バス、シーバス、雷魚、青物、トラウト、根魚、鯉系、ナマズ、フラットフィッシュ、チヌ…挙げればキリがないけど、いろんな魚を釣ったし、その魚の釣り方が知りたくて何度も通った。
そして釣りのためにいろんなところへいった。
高校時代からアカメが釣りたくて高知に通い続けたし、
豊富な魚種に魅了されて北海道に長期滞在したり。
ボルネオ島ではアジアアロワナやスネークヘッドに狂わされて一年で何度も渡航した。
地球の裏側メキシコで野生のカウボーイを見て卒倒したり、
マレーシアは第二のホームタウンと言えるほど滞在していた。
年齢の割にはとにかく莫大な時間釣りをしてきたと思う。それも一度も止めることなく少年時代から狂ったように釣りをしてきた。
釣りをしてる間はずっと楽しいかと言われればそうでもない。
むしろいろんな悔しさ、苦しさを味わう時間のほうが長かっただろう。
失ったものも沢山あったし、これからもそれで失うものなんて沢山あると思う。
そもそも、地球のあちこちいったって お金をかけたって狙った魚が釣れる保証もない。
そして狙った魚が釣れたからといって人生がそれだけで好転することはほとんどの場合ない。
むしろ釣りで壊れるもののほうが多いんではなかろうか。
釣りの魅力ってなんだろうか。
よく言うのは、狙った魚や自己記録が釣れた時や試合や競い合いに勝った時、何にも変えがたい感動がある。
確かにそれはある。膝が震えてまともに立たなくなる魚が実際にいる。
魚を釣って涙を流すことだってあるだろう。
でもそこまで感動できるようなシーンって釣りをしていて何度遭遇しただろうか。
俺の場合、これだけ釣りをしていても正直数えるほどしかない。
それが釣りをする理由ならもうとっくにやめているだろう。
あとは釣りの時は仕事や家庭の色々な嫌なことを忘れられるなんて人もいる。
確かに釣りをしているその時は、魚が釣れた嬉しさや大自然に囲まれることで忘れられるかもしれない。
人生悲しいことや、辛いことがたくさん起こる。
でも釣りをしてるからという理由でそれらの問題が解決することもなければ救われることなんてない。
釣りが終わったらその問題とは向き合わなければならないからだ。
きっと釣りをアホみたいに続けている連中は、達成感や感動、現実逃避…なんていう感情よりももっと深いところ。
心の奥底に眠った何かが原因なのではないだろうか。
なぜ毎日釣りに狂ったように行ってしまう連中がいるのか。
最近の俺が思うのは、居場所がそこにしかない奴らなんやと思う。
自分もそうだから。
釣りが好きで釣りばかりしてた少年時代、青年時代。その時代は「こいつ釣りが好きやなぁ」と思われるだけ。
でも青春を通り越して大人になって、おっさんになってく。責任も義務も果たさないといけないのに釣りばかりしてるのはどうしようもない奴らだ。
きちんと働いて、休みの日は遊んだり、家族と過ごしたり、飲みに行ってワイワイ話したり。
そんな普通の日常。俺も嫌いじゃないし、とても大事なこと。
でもそれだけだとどこか煮え切らない自分がいる。
最高の居場所ではないのだ。
でも、水辺で魚を追いかけてる時はそこか居場所だって感じる。
水辺に行くと魚がいて、同じくらいバカな友達やライバル、敵だって沢山いる。
それが最高に居心地がよいのだ。
この先はどうなるかはわからない。居場所が他にも見つかるかもしれない
でも今のところ俺は居場所が水辺にしか見つけられない
琵琶湖、日本の海、海外のジャングル、世界の大海原。
どんな大自然の中で釣りをしたって、大変なことも辛いこともなくなったりしないけど、そこに確かに居場所がある
コロナ禍に突入する前、世界中の水辺が居場所だった
でもそれが出来なくなり、琵琶湖に毎日居場所を求めた。
故郷の琵琶湖はとても居心地よかった
ダメな俺も母なる湖で竿を出している時は幸福を感じる。
好きなルアーで、自分がおもろいと思う釣りを琵琶湖でしている時間は自分の居場所であることを実感出来る。
でも、やっぱりそれでも世界中に確かにあった居心地のよい場所を忘れられない。
雄大な自然の中で、多種多様な魚たち、別の世界で生きてきた仲間が沢山いて、そこでの釣りはとても居心地がよいのだ。
ほぼ3年間止まった時計の針。準備を整えてまた自分の居場所を探しにいかなければ。
自分探しの旅なんて古いかもしれないけど、自分がいるべき場所はきっとここではないどこか遠くにあるのだ。
2022年中に自分の居場所に帰りたい。
そう強く願っている今日。
10年前インドネシアのボルネオ島で聴いていた自分の青春時代の音楽をふと再生してしまい。
こんな長文を書いてしまったとさ。
大人になって最近はあまりこういう文章書かなくなっちゃったけど、
自分のブログだからたまにはいいよね。
- 2022年7月15日
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