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西方見分録 8(終) 山口

  • ジャンル:日記/一般
経路
周南ー防府ー宇部ー山陽小野田ー下関

期間
12/10~12/15

歩行距離
約120km

釣行場所、釣果
なし



山口県周南市から山陽の海沿いを歩いてきた。

下関の東端から山にはいり吉田の東行庵で東行こと高杉晋作の墓参りをすます。

そして、12/15夜明けまえの午前6時頃、旅の最終目的功山寺に到着。
2ヶ月に渡る旅が終わった。

今回の旅の最大の目的は高杉晋作の墓参りと彼の決起の舞台である功山寺の見学であった。

高杉晋作は仲間から鼻輪のない牛と称されるほど自由奔放、変幻自在な男で、その行動力を良い方にも悪い方にも発揮しながら幕末の長州藩で活躍した。


そしてこの功山寺では、無謀といわれながらたった80名ほどで佐幕派に傾いた藩政府全体を敵に回して決起し、結果的に成功、藩論を倒幕へと変針させた。

この功山寺挙兵がなければ長州藩は幕府と敵対することなく、明治という時代も来なかった可能性があるので、そういう意味で功山寺は日本近代化のターニングポイントとなった場所だといえる。


この功山寺で三条実美らに決起を表明したとき高杉晋作はなにを考えていたのだろう。
破れかぶれのヤケクソだったのか、それとも結果的にそうなったように彼が突破口を開いたことで周りも立ち上がりこのクーデターが成功することを見越していたのか。
彼の性格上どちらの可能性も否定できないが、本当のところは当人でないとわからない。

彼は感情に任せて訳のわからないことをやらかすことが多々あったが、基本的には長州藩に対する忠義のために戦った人生であった。
本人も言っているように、個人的な名利を追うようなことはしていない。

だからこそ彼はいくつもの奇跡的で鮮やかな活躍ができたのだと思う。

私は既に高杉晋作より5年以上長く生きている。

彼ほどのことは到底できるはずもないが、その精神は見習って行きたいものだ。

用事が全て済んだため功山寺の山門を抜け、引き返そうとしたところ、南の海からは朝陽が見えはじめていた。
空が真っ赤に燃えているようだった。

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