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村岡昌憲
東京都
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▼ 山越え
- ジャンル:日記/一般
目指す頂は常に見据えているつもりだ。
それに比べたらなんてことのない山々がこれでもかこれでもかと毎日のように襲いかかってくる。その目の前の一つを超えるために今日も一歩一歩、会社で仕事。
いつからか死というものを至極身近に感じるようになった。
一瞬という時間、数センチといった位置の違いで今まで普通に生きてきた人が死に神に飲み込まれる。ある瞬間まで全く危険性というものが感じられないビルや電車の中でテロや事故が起き、自分がなぜ死ぬのかも分からないままにその人生に終焉を迎える。なんてことない日常に死神に魅せられた他人が理不尽に死を振り与える。
人はそれを運命と言い真実から逃げるように他人事として納得する。だけど決してそうではない。生きるということは必ず死ぬということである。それは誰だって理解している。生を持って生まれたものは、いや、生があろうとなかろうと形あるものは必ず滅びるのがこの世界の摂理というのならば、形あるものは常にどう滅びるかを時間の中で問われながら存在するものであろう。そしてただそこに存在するだけの岩や水、本能のみで動く動物と違い、己の行動や選択の意味を考えるという事ができる唯一の形あるものである人間は、どう死ぬかという意味を常に頭の中に抱きながら生きていくべきではないか、と。だから死を身近にとらえ、常にその意味を問いながら生きようとする自分がいたのである。
しかし、形あるものが全て滅びるという絶対的な平等があるのならば、その死に方や死に場所に意味はなく、全ての滅びは無駄であり無意味ではなかろうか。そんな風に最近思う様になった。
心から羨ましいのは本能のみで生きる動物である。動物は羨ましい。人間は考えなくてはならない。しかし、本能のみで動く、考えるということすら放棄した考えているつもりの阿呆人間がこの日本にたくさん繁殖している。理性も理想もない。あるのは本能、快楽だけである。来る日も来る日も流れるそんな阿呆のニュースは憂いの気持ちを高めるばかり。
ふと思う。
自然界本来の在り方。
厳然かつ無常な生と死。
それを覗きながら死の意味を見つめ、いつしか悟り死んでいくから
釣り人はアングラーと呼ばれるのではないだろうか。
そして人から太公望と敬まれるのではないだろうか。
釣りに行きたいなぁ。
- 2004年3月14日
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