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関根崇暁

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BlueBlue.jpg 「背中に背負う蒼色は鳥から見た海の色」 「お腹に抱く蒼色は魚から見た空の色」 「BlueBlue 海を愛する人へ―」 「Where's your Blue?」 ima_banner.gif 株式会社アムズデザイン運営のima公式web site。シーバスルアーkomomo,sasuke等の紹介。ルアーテスターの釣行記、コラム等も掲載。

僕という釣師の生い立ち。

権利を主張する前に、まず義務を果たせ、何でも良いから真面目にやれよ、怠け者は人間の屑だ!!!

いったいオメェは何がしてぇんだ、釣りは隠居の爺さんの遊びだろ、まずは勉強するんだ!わかったかっー?!


子供のころ、耳が痛くなるほど、カミナリオヤジの祖父に言われた言葉だ。



祖父は丁稚奉公からの叩上げで、中島飛行機(現:富士重工)で旋盤工の技術者として勤め、徴兵されるが、工兵として終戦を迎え兵役を終えた。

戦後、僅かな元手に旋盤を購入し、一代で町工場を持ち、カメラ部品の仕事をして高度経済成長期の波に乗り事業を成功させた。

そんな立派な人であることは間違いない。

僕の祖父も父も町工場の経営者である、零細企業とはいえそこそこ豊かな暮らしをしていたから、恵まれた環境に僕は育った。



しかし、祖父も、父も釣りはしないから、釣りへの理解は無かった。



僕に釣を教えたのは、母方の祖父である。

一方、母の実家は、兼業農家で地元企業の工場勤めの母方の祖父、釣り、投網、鉄砲、バイク、夜遊びなんでもゴザレの人だった。

母方の祖父、そして母の弟である叔父、この二人に僕は釣り少年として育てあげられたと言える。

父や祖父には何時も厳しくされていたから、母の実家へ行き、釣りに連れ行ってもらうのが一番の楽しみだった、母の実家には小さな船があり、納屋には投網や古い太鼓型のリールや鮎の竿、祖父が製作中のヘラ浮きに、叔父のフライフィッシングの道具。

今の僕になるための十分すぎる環境がそこにあった。

叔父の車は、希少車、KPGC-110 GT-Rだった、直線はアクセル全開な人で、センターコンソールには水中花のシフトノブが付いてた(笑)

母方の祖父の弟は輸入中古車販売業と整備工場を営み、モータースのオジサンと呼ばれていた。
356や930型のポルシェ、12気筒のジャガー、赤いイタリアの馬。普通に置いてあった、そこも僕の好きな場所だった。

僕が車好きになる環境がそこにはあった。

因みに叔父の弟は、SAJ一級のスキーヤーで、僕にスキーを教えた人(笑)


真面目に仕事をして成功をする人生と、趣味を十分に楽しみ生きる人生。

周囲の大人たちは、その二つを僕に魅せてくれた。

さて、今の僕はどっちだろう?

きっと、どっちでもない。

何時もどちらを選ぶかを迷ってきた、それは、どちらも正解に思えるからである。

その為に、大切な家族を裏切ったり、自分の自我を殺したり、何かを生かすことも出来ないくせに、何かを犠牲にしてきた。

結果、何者にもなれなかった。

最近、この二つの生き方は一つに出来るのじゃないか?と思い始めた。

少なくとも、それに近い生き方をしている人がいる。

要はバランス感覚が重要って事に漸く気付いた。

今更なんですけどね・・・・

 

40歳になった今、やれることを、やれるだけやってきたけど、まだ何か足りないな。

色々な出会いと、別れがあったけど、未来が楽しみでしかたない。

若いころは自分勝手で駄目な奴だったから1万回くらい死にたい時もあったけど、後半は真面目にやって人生最後に笑いましょう。

冒頭の祖父の言葉、今でも心に響いてます。

本人には言えないけど、本当にありがとう。

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